習近平国家主席とオバマ大統領がカリフォルニア州で行なった「ノーネクタイ」の首脳会談に、アジアにおける米国の最大の同盟国である日本は「同盟の窮地」の思い煩いを再びあらわにしている。(文:張雲・新潟大学准教授。人民日報海外版コラム「望海楼」掲載)
日本の大手メディアは中米首脳が就任後3カ月足らずで2日間の「別荘外交」を行なったことにまず驚きを見せた。日本の首相が2月に公式訪米した際は、昼食に招待されただけだったのだ。中米首脳が一体何を話し合ったのか日本は好奇心をあらわにし、米国が日本に隠れて中国と「外交取引」をするのではないかと懸念している。
日本のこうした思い煩いは別に真新しいものではない。1972年の中米関係再始動以来、いかなる中米接近にも日本は同様の不安を抱いてきた。「ニクソン・ショック」(日本では「頭越し外交」と呼ぶ)から、クリントン訪中による戦略的パートナーシップ構築、そしてブッシュ政権期の戦略経済対話の始動、さらに今回の「習・オバマ農園会談」まで、日本は中米日の三カ国関係が米国に捨てられうるいわゆる「同盟の窮地」を招かないかを注視し、アジアと国際問題における自らの存在感が中米関係のために失われることを懸念してきた。日本の「思い煩い」の背後には、外交戦略思考上の三重の誤った認識がある。
第1に、日本は中米日の三カ国関係をゼロサムゲームと見なしている。これは、その戦略思考の厚みの欠如を示すものである。日本の不安は、潜在意識において中米接近を日米関係を犠牲にして成り立つものと見なしていることを物語っている。つまり、中米関係のプラス成長は日米関係のマイナス成長とイコールなのである。この意味において、日本は中米日三カ国関係を「日米」対中国の「2対1モデル」と考えている。問題は、グローバル化の今日において米国人は依然として冷戦時の中米ソ三角関係モデルで中国を見るのだろうかということだ。さらにまずいのは、こうした思考方式に中日戦略関係が欠けていることだ。中国との戦略面の意思疎通を欠けば、日本の不安と米国への猜疑は深まるだけだ。
第2に、中米関係に日本が関心を持つのはおかしなことではないが、中米日関係が日本外交の全てであるべきではない。戦後日本は日米同盟、国連、アジア外交を外交の三本柱と位置づけた。冷戦時代の日本外交は事実上、対米外交とほぼイコールだった。冷戦終結後、中国の台頭を受けて、対中外交を重視するようになったが、その戦略的位置づけはなお過渡期にある。日本にとって中米が最も重要な国なのは確かだが、外交的関心をこの両大国に集中しても、望むような成果を得られるとは限らない。多国間外交、アジア地域の統合などの分野で知恵を出し、外交的貢献を果たして初めて、こうした大国との外交において重みを増すことができるということを日本は認識すべきだ。
第3に、経済力が世界3位に後退したからといって、自ずと外交的に米中に冷遇されると考えるのはミスリーディングだ。経済力と外交的影響力が緊密な関係にあるのは間違いない。だが経済力が相対的に低下すれば必ず国際的存在感も低下するというのは説得力を欠く。世界には経済力は強くないが、それとは比較にならないほど大きな外交的影響力を発揮している国が少なからずある。例えばアジアではシンガポールが地域間対話、国際交流、外交交渉面で超大国も及ばない役割を数多く発揮している。世界第3の経済大国である日本が、シンガポールより経済力で劣っているわけはあるまい。
中米両大国間に位置する日本は、両国を結ぶ架け橋となる可能性がある。こうした戦略的位置づけは、日本を40年間苦しめた「同盟の窮地」を和らげるだろう。考えてもみるといい。もし日本が中米首脳の非公式会談を富士山のふもとの別荘で開催できたら、それこそ日本外交の実力と国際的存在感を示すものとなる。中米日三カ国関係をゼロサムゲームと見なす思考のフレームワークは、日本外交を束縛するだけだ。
「人民網日本語版」2013年6月12日