大野泰治の1954年11月の供述書によると、大野は1902年高知県生まれ。1934年12月に志願によって満州国警務指導官に就任した。1938年10月、晋北自治政府に派遣された。1945年8月の日本軍降伏後、国民党閻錫山の部隊に身を寄せ、太原綏靖公署炮兵集訓団上校教官に任じられた。1950年12月12日、山西省で逮捕された。
大野が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。
1935年8月、横道河を中心として付近の地区から多くの中国人民を捕え、その約20人は横道河警察署に拘禁し「毆打したり、水お呑ませたり、縛つて吊り下げる等の拷問を加へて訊問し、その中二名は抗日思想が濃厚だと云う理由をつけて石田が斬殺してその頭お焼いて脳味噌お薬にすると云つて哈爾濱に持つて来てその一つは私が喰いました」。
1936年、濱江省珠河県で「珠河縣參事官お長とする警察隊約六十名の無住地帯設定工作隊(三光工作の典型的なもの)に参加し」た。
1936年2月12日、珠河県県公署で女2人を受け取った。「一人は趙一曼二十七歳」で、「手首の銃創お握つたり鞭で突いたりして拷問お加え乍ら二時間近く共產黨の組織と連絡關係に就て訊問しました」。
1936年8月から1937年6月、保甲自衛団を組織したうえ「通敵分子の摘發殺害お命令し又殺した時はその功績を證明する爲耳お切り取つて縣公署に送るように命令しました」。「阿城縣内で抗日連軍の兵士及び工作人員九人お銃殺しその中八人は耳お一人は首お斬つて阿城縣公署に送らせ」た。
1937年2月、「濱江省阿城縣南門外に於て、私は前記職務で縣公署に在職中、城門外に坐つて物乞いおしていた四十歳前後の癩病患者の男が汚くて通行の目障りなるこの様になつて生きていても仕方があるまい而し日本人が殺したと言へば悪口の種になるから分らぬ様に毒殺してやろうと考えて部下の日人警士普入通に亜砒酸お饅頭に入れて毒殺するように命じ」、翌日毒殺したとの報告を受けた。
1937年8月頃、濱江省阿城県永増源で抗日連軍の糧食工作員である30歳前後の男を警察署の取調室で「私自ら鞭で毆つて拷問お加え乍ら凡そ一時間くらい訊問した後はつきりした抗日分子だから生かしておけないと考えて警察署の指導官伊藤巡官に殺すように命令しました」。
1940年5月頃、応県県城で県公署の留置場に長い者は1年以上も拘禁している20人くらいの中国人を見て、死刑、罰金、笞刑の三種に分けて判決するように指示した。「内五人に對しては彼らは八路軍の工作員となつて縣内の治安お攪乱したのだから死刑にすべきだと云う意見お述べて裁判おさせた」結果、うち3人は南門外の刑場で銃殺したとの報告を受けた。
1935年から1945年までの間に「三十五件、六百五十四人の中國人お殺しました」「私が放火したもの、三件、焼失家屋は、民家約四十七戸、百四十六間、完全焼却しました」「強姦九件、十四人」「拷問お加えた者、三十七件、七百二十四人であります」「掠奪は合計三十六件で」「糧穀六萬四千噸」「銀三千六十枚」。(編集NA)
「人民網日本語版」2014年7月18日