林国本
先般、友人の招待で、日本なら国立大劇場とも言うべき国家大劇院で京劇『赤壁』を観劇してきた。この友人は私が数十年間国際分野のジャーナリストとして過ごしてきた人間で、ふだんはバイリンガルか、トリリンガルのような暮らしをしていて、時には知ったかぶりをして、ミシェル・フコーとか、ジャック・デリダの著作について語ったりしているので、こういう伝統芸能には興味がないのでは、と思ったらしいが、私は大いに興味を示し、観劇を終えてからは本棚の京劇についての本をひっぱり出して再勉強したくらいだった。
実を言うと、私がまだ青二才の駆け出しの頃、当時、対外文化部門に勤務していた知人の推薦で、日本の「劇団前進座訪中団」の通訳として仕事をしたことがあり、その公演の準備のため、中国の京劇界、演劇界の人たちとふんだんに触れ合う機会があり、よく中国の演劇学校に見学に行ったりしたので、一応常識として中国の伝統芸能のことを少しは知る機会があった。今でも覚えているが、当時、対外文化交流部門に勤務し、その後外文出版社に勤務することになったSさんとは、前進座のレパートリー、勧進帳、鳴神の字幕の放映役をまかされ、全国各地への公演旅行でくり返し勧進帳、鳴神を観賞する機会に恵まれた。
しかし、正直に言って、私のような都会育ちで、外国の影響をより多く受けてきた人間にとっては、中国の伝統芸能を十分に知る機会は少なかった。同僚がよく京劇や中国の地方芝居を楽しそうに、陶酔したように口ずさんでいるのを見て、いつも自分のブランクを意識していた。中国の京劇や地方芝居の「うた」やセリフや節回しは独特な、専門の訓練を経なければ身につくものではないので、これは私にとっては乗り越えることのできないバリアであったが、中国の伝統芸能については、ずっと大切にしてその保存と発展に力を入れるべきであると思ってきた。
今回の大劇院での京劇『赤壁』は、日本の皆さんがよく知っている三国志の中の物語をテーマとし、それにオペラ的要素を加味したもので、私のような「半可通」以下の人間にとっては、かなり分かりやすいものだった。劇場全体を見渡してみると、大体三分の一以上は私のような「半可通」以下の観客であるようだったので、私は全然違和感を覚えることなく観賞したが、「京劇通」の人たちの話では、このようなオペラ的要素を加味した京劇は「初体験」だったらしい。「京劇通」の人たちの中にはやはりこれまでのやり方での公演の方がよいと言う人もいたが、若者たちの間では新しいスタイルのものの方が分かりやすいと言う人もかなりいた。とくに面白かったのは、対外開放で外国人観客も増えているので、英語の字幕もついていて、余計ストリーが分かりやすかったが、ちょっとした違和感も感じた。字幕そのものはすばらしい英語に訳されたものだったが、「諸葛孔明先生のご高説を拝聴したい」という訳が出てくるのにはちょっとひっかかった。私は長年国際ジャーナリズムの世界で暮らしてきた人間なので、こういうことに人一倍敏感なのか、とにかく私たちの仕事の世界では、「李白先生」、「杜甫先生」という具合に古人を呼ぶことは邪道ということになっていた。それなのにこの芝居では、「ミスター諸葛孔明」となっている。だが、考えてみると、欧米人の観客がいる手前、そうせざるを得なかったのかも知れない。
とにかく、今回の観劇で中国の伝統芸能が近代化という社会の変容の中で、持続可能な発展をとげていく可能性と方向性のひとつを目にして、たいへん勉強になった。
最近、ある友人が「私は京劇に弱いの」と言っていたが、この人は私よりも中国の文化をよく知っている人なので、私は胸をなでおろした。中国の伝統芸能もこういう人たちを引き付けるようになる必要があるのではないだろうか。中国のある知名人が、中国の京劇をペキン・オペラと英訳するのは間違いだとある雑誌に書いていたが、私も同感である。京劇イコールオペラではないことは確かだ。京劇は中国が誇りとしてもよい中国の伝統芸能である。しかし、中国の若者たちの好みも考慮に入れて、舞台装置などにオペラ的要素を加味してみるのも一案ではないだろうか。私の知るところでは、日本でも歌舞伎や能、狂言を本当に理解できる人、とくに若者は少ない。どの国も自分たちの伝統を大切にすることの必要性を感じている昨今である。そういう意味で今回の観劇はたいへんプラスとなった。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2010年12月13日