太原市北部の小さな通りに、レンガと瓦の古ぼけた住宅が2列並んでいる。中国侵略日本軍が華北地区に最初に建てた、最大規模の戦争捕虜強制収容所の一つである。当時は「太原工程隊」と呼ばれていた。この建物が今年、抗日戦争70周年とあって、再び注目を集めている。
この収容所は、中国侵略日本軍によって1938年6月に建てられた。世間の目を欺き、戦争の罪を逃れるため、日本軍はこれを対外的には「太原工程隊」と呼んでいた。日本軍が中国に建てた最大規模の戦争捕虜収容所の一つであった。
「太原工程隊」は設立当初、山西忻口の戦闘で捕虜となった中国の軍人を収容していた。1940年以降、規模が拡大され、山西地区的の中国の戦争捕虜と日本兵が捕まえてきた一般人も収容するようになった。
太原市杏花嶺区の文化財・観光局の文化・歴史顧問の孫毅氏によると、太原収容所は、抗日戦争期間の華北地区における日本軍の5大収容所の一つで、そのうち現存する唯一の旧跡である。牢獄が今も残る唯一の日本軍の収容所でもある。1938年6月の収容所建設から1945年8月の戦争終結までの7年間で収容・拘留された将兵は計12万人以上を数え、中国侵略日本軍が拘留した戦争捕虜が最も多い収容所の一つとなっている。
太原収容所に送られた戦争捕虜の大部分は労務を課せられ、所内の雑用をしたほか、大小様々な施工隊が組織され、市内の道路や橋梁の建築、日本軍の倉庫への物資の運搬や積み卸しなどを強制された。
「日本人は捕虜の病気を最も恐れた。誰かが病気になると、特別な部屋に運ばれ、一尺(30cm余り)以上もある石灰の中に寝かせられ、消毒された。消毒の結果、病人はすぐに死んで行った」。メディアの取材を受けた戦争捕虜で生き残りの王丕緒老人は、収容所で命令され、このように死んだ仲間を何度も担ぎ出したことがある。戦争捕虜は毎日、カビの生えた食糧を食べさせられ、量も限られていた。食糧はボロボロの箱入りで監房に持ち込まれ、食器のない戦争捕虜はこれに群がり、手で貪り食った。つかんだ食糧が多ければ多く食べられるが、つかんだ量が少なければ空腹に耐えるしかない。十分な飲食のできない戦争捕虜はよく病気になり、治療もすぐには受けられず、平均で毎日十数人が亡くなっていった。
王老人によると、日本軍は時折、血を取るため、収容所に来てがっしりした収容者を探しに来た。王老人もその一人だった。血を取られる対象に指定されると、飲食と居住の条件が良くなった。戦闘準備の血液備蓄のために数日に一度血を取られた。人体実験に送られる人もいた。太原市公文書局は、日本軍の山西侵略期間の生体解剖実験被害者のリストを公表し、このリストには、被験者の氏名や年齢、本籍、その前にいた場所などを詳細に記録されているが、そのうち多くの被害者はこの収容所から送られていたことがわかっている。
さらに悲惨で非人道的なできごとが「中国のアウシュビッツ――日本軍『太原収容所』の記録」に記載されている。日本軍は、新兵を訓練する際、生きた人間を使って肝試しをした。彼らは戦争捕虜を一列に並べ、新兵に銃剣で死ぬまで突かせ、新兵が人を殺せるよう訓練した。資料によると、もっともひどい時で、一日二回のこの訓練で300人余りの戦争捕虜が刺殺された。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2015年8月12日