北京の地下鉄の混雑度は、日本と米国の中間くらいだろうか。北京には幸か不幸か、プロの「押し屋」はいない。もっともこれからもいない方がいいだろうとは思う。混雑がそんなにひどいなら、政府が交通設備を増やすなど、より人間的な措置を取ればいい。人がしなびたカスになるまで押し込まれるという状態は異常である。
混んだ車両に乗り込めるかは、本当の北京人であるかの試金石と言える。ただ乗り込むだけではない。乗った後に、後ろの人にも隙間を作るという心遣いを見せるのが本物である。ドア付近を陣取っているのは、大小の鞄を抱えた出稼ぎ者だが、彼らにしたところで態度がでかいからそうしているわけではなく、占領してやろうと思っているわけではない。北京に来たばかりで心細く、下りられなくなるのを心配しているだけだ。乗り降りする乗客に押しまくられながらも、安心できるわずかな空間を懸命に残そうとしているだけだ。だがしばらく経つと慣れてきて、乗車するとさっさと奥に進む。頼りない標準語で「労駕借光」(通してください)と言いながら奥の方に進んでいくと、比較的空いたスペースに出る。ここなら他人にも迷惑をかけないし、自分も落ち着くことができる。
北京地下鉄の乗客は、混雑した車両の中で人に押しまくられるのに慣れている。運が悪かったと諦め、ぶつかった相手を捕まえて怒り出すような真似はしない。人に足を踏まれたなら、上級者はユーモアで、「すみませんが、足の下を何かがお邪魔していないでしょうか」と問いかける。中級者は、「気をつけてくださいよ。私の足は肉が付いているんです。ステンレス製じゃないんですよ」と言う。最も野暮な反応でも、「地下鉄に乗ったことがあるんですか。気をつけてくださいよ。あ、くるぶしの骨が折れたかもしれない。CTを撮るのに病院に連れて行ってくださいよ」などとつぶやきながら、足を引きずって一人降りていくくらいのことはする。
人間の間のテリトリーなどというものは、あまりはっきりさせすぎていいものではない。きれい過ぎる水には魚も住まず、ただ冷たいという印象さえ与えてしまう。もちろん近すぎるのもいただけない。境界がなければ個性の独立もない。適当な「度」というものは、文化によって形作られるものである。
選ぶべきなのはやはり、「中庸」や「平和」の道だろう。いつかもし、グローバルな地下鉄ができるなら、北京のような東洋式のファジーな距離感が理想だろう。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2015年12月31日