「僕たちはトングリ砂漠で14年かけて20キロにわたって植樹した。1年当たり、1キロちょっとの計算。トングリ砂漠は少なくとも600キロあるため、今のペースなら少なくとも500年はかかる」。呉さんは冗談っぽくそう話し、「以前は少しでも広い場所に木を植えることばかり考え、3年後、5年後にそれらが管理されているかは考えていなかった。また、どれだけの木を植えて、どれだけの木をちゃんと管理できるのかなど考えていなかった」と振り返る。
しかし、ある年の冬、呉さんは日本で、わずか2ヶ月の間に、専門家が樹齢100年以上の大きな木を5-6回も剪定しているのを目にして、「保護」の重要性を理解するようになり、アルシャーに戻ってから、仲間と共に剪定の計画を策定した。
呉さんは「環境保護」という「種」を一人でも多くの人の心に植え、一層多くの人が「植樹」について意識するようになることを願っており、「木を植えるだけでなく、『心』も育てなければならない。『砂漠化がこわいというよりは、人の心が砂漠化するのがこわい』。これは、僕の父親が以前よく言っていたこと」と話した。
当初、日本には、実際にその砂漠に行ってみたいというボランティアがたくさんいた。そして、毎年、呉さんはボランティアの名簿を作り、さらに、現地の小学校を訪問して、日本のボランティアが短期間アルシャーの小学生の家にホームステイして、一緒に植樹を体験できるよう、「マッチング」をしようと試みた。
呉さんの取り計らいで、最も多い年で、日本のボランティアと中国の小学生の家庭40組の「マッチング」に成功した。日本人ボランティアは、最年少で20代の大学生、最年長では80歳近くの高齢者夫婦までいた。最近、呉さんは、この活動に参加し、大学を卒業したあるアルシャーの男性が、日本に遊びに行った時に、当時ホームステイした日本人の家に泊まったことを聞いたという。
42歳の呉さんは、チーム最年少にもかかわらず、植樹の経験は最も長い。7人の平均年齢は約50歳。砂漠化が進まないよう砂漠に住んでいる呉さんが一番心配しているのは、単調な生活のことではなく、仲間がいなくなってしまうことだという。日本からの援助を受けていた時期は、中日関係が悪化するたびに、その影響で日本からの資金援助も止まってしまうなど、植樹プロジェクトも不安定だったという。最も深刻な時は、半年間給料が出ず、その年は若者4人が去って行った。それでも、呉さんは、植樹の足並みを緩めようとはしない。15年、中国緑化基金会「百万森林計画」が、呉さんらのチームへの援助を始めた。呉さんは、「このプロジェクトが一層安定するようになり、少しずつ中国全土で声を発することができるようになっている」と感じている。
呉さんは、「砂漠と仲良く共存することを願っている」といい、「人が自然に打ち勝つのでも、砂漠に宣戦布告するのでも、オアシスが砂漠を追い出すのでもない。この土地で、砂漠とオアシスの最大公約数を探し、調和のとれた生態環境を作りたい」と話す。
「もし、植樹の活動をしていなければ、日本に残り、同級生らと同じように事務所に座って報告をまとめたり、海を渡ってビジネスをしたりしていたと思う」という呉さんは、砂漠に来た当初、アルシャーに「ラスベガス」を作ることまで考えたという。
しかし、時間と共に、「カジノの都」を作るという夢は少しずつ薄れ、植樹の道を一心に歩んでいる。(編集KN)
「人民網日本語版」2017年7月5日