1964年10月、中国少年卓球チームを指導する日本の松崎君代(左2)コーチ。
流行感度の高い多くの若者たちで終日賑わう東京・渋谷。そんな渋谷の行き交う人ごみの中に静かにたたずむ古い建物がある――国立代々木競技場だ。1964年に開催された東京五輪に向けて建てられた体育館で、かつて卓球中国代表団の全盛期(83年の世界選手権で団体戦男女共に優勝)を見届けた場所でもある。
東京のように世界卓球選手大会を三回(1956年、1983年、2014年)或いは三回以上開催している都市は少なくないが、名古屋や千葉、大阪、横浜の四都市を入れると、日本全国で7回もの選手権大会を開催していることになり、この点は他国に類を見ない。卓球界における中国選手の地位は今や不動のものとなったが、日本人の卓球にかける思いは数々のエピソードを生んでいる。
世界卓球界における「日本時代」
卓球の起源は1880年代のイギリスで、上流階級の遊びがスポーツに発展したものと考えられており、長きに渡り主にヨーロッパで発展を遂げてきた。統計によると、国際卓球連盟(ITTF)が成立した1926年に第1回世界卓球選手権大会が開催されて以降、1951年の第18回ウィーン大会までに計117の優勝者(優勝チーム)が誕生しており、アメリカの8回を除いてすべてヨーロッパ諸国の選手が王者に輝いている。
アジアで最初に卓球を始めた国の一つである日本は、1952年になってようやく3名の男子選手と2名の女子選手を同大会に送り出した。ヨーロッパの統治時代において、選手は皆木製の板に紙やすりを張ったラケットを使用していたが、1952年のインド・ムンバイ大会でオーストリア人が発明したといわれるスポンジを張ったラケットに変わり、この年の大会で日本の佐藤博治選手がアジア勢で初めて優勝を果たし、世界に衝撃を与えた。彼が率いる日本代表選手団は男子シングルス、男子ダブルス、女子ダブルス、女子団体の4種目を独占し、ヨーロッパの時代を絶っただけでなく、それまでのカット主流の守備型スタイルからドライブを駆使したスピード攻撃時代へと移行させた。
卓球の変革の先頭に立った日本勢は波に乗り、1954年の第21回から1959年の第25回の世界選手権大会まで、萩村伊智朗率いる日本の男子選手団は「五連覇」の偉業を成し遂げ、「日本時代」と呼ばれる栄光の時代を築き上げた。この間35の金メダルがの内20個が日本選手の手に渡った。とりわけ1959年のドムトルン大会では、7種目中、日本選手が6冠に輝き、男子シングルだけが優勝を逃した。注目すべきは、この時男子シングルで優勝したのは中国の容国団選手で、中国の卓球界初の世界チャンピョンとなった。