日中「ピンポン外交」
「ピンポン外交」といえば、中国人であれば1971年に中国政府が卓球アメリカ選手団を招いたことを思い浮かべる。しかしながら、この「小球推動大球」(小球はピンポン球、大球は地球)の「証人」のいちメンバーとして(第31回名古屋大会で中国がアメリカに招待状を送ったことから)、日本はこれよりも早い段階で中国と「ピンポン外交」を展開しており、それは今日まで続いている。
日本の卓球界がアジアで無敵を誇った50年代、中国の卓球はまだまだ小さな存在だった。第23回の東京大会が開催された1956年は、日中両国のスポーツ交流の幕開けの年であり、中国の卓球が初めて世界の舞台に登場した年となった。1961年に開催された第26回北京大会では、周恩来元総理が日本の選手を特別に接待している。その後、日中の卓球交流は益々賑わいを見せ、中国は度々日本の選手を中国に招くようになり、日本からループドライブ技術を積極的に学んだ。松崎君代選手を代表とする多くの日本選手が、中国人なら誰もが知るスターとなった。
1964年の東京五輪以降、日本のスポーツの重心は個人種目から団体種目へと傾き、それに加え頻繁なスポーツ交流を通じて中国選手の卓球技術は一段と磨かれ、次第に日本を超えるようになり、アジアないし世界で不動の地位を構築していった。80年代から今にかけて、多くの優秀な選手ならびにコーチが日本へと渡り、同時に多くの日本の選手が中国へと渡った。特に美少女を意味する「瓷娃娃(ツーワーワー=陶器の人形)」のあだ名で親しまれる福原愛選手を代表とする「日本出身、中国製造」の道は、日本の卓球界が公認する高効率人材育成の道となりつつある。