○中国人選手のオリンピック出場を初めて実現
1932年7月、第10回オリンピックが米ロサンジェルスで開催された。当時の南京政府は経費難を理由に、中国選手団の出場見送りを何度も明言した。日本はこの機に乗じ、劉長春と于希渭を代表選手とする「満州国」選手団をロサンジェルスに送り込もうと急遽画策した。これは中国の愛国者たちの強烈な反感を呼び、張伯苓をリーダーとする中華全国体育協進会は、「満州国」のオリンピック参加に対し断固反対・阻止する姿勢を鮮明に示した。劉長春も、「私は誇り高い中華民族・中国人であり、満州国代表として第10回オリンピックに出場することを絶対に拒絶する」との声明を発表した。
張学良は7月1日、「8千元(旧時の銀貨)を投入し、卒業生の劉長春と于希渭を代表選手とし、宋君復・教授を監督とする中国代表団を第10回ロサンジェルスオリンピックに出場させる」と厳かに宣言した。しかし、この時点で出場申請はすでに締め切られていた。張伯苓はこれを聞くとすぐに国際オリンピック委員会(IOC)に電話をかけた。さまざまな努力が実を結び、ついにIOCから出場承認を得た。于希渭は諸事情から、出場を果たすことができなかった。
7月8日午前10時、劉長春と宋君復は上海から郵便配達船「ウィルソン」号に乗り込み、米国に向け旅立った。中国人がオリンピックという殿堂へ最初の一歩を踏み出した貴重な瞬間だった。
「人民網日本語版」2008年2月15日 |