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チベット封建農奴制廃止と欧米の「奴隷廃止」①
発信時間: 2009-02-26 | チャイナネット

このように残酷かつ野蛮な制度に対し、チベット地区では過去に3度、社会をあげて改革を要求するうねりが盛り上がった。

1度目は18世紀末から19世紀初め。この改革は清朝皇帝が権限を授けたチベット駐在大臣が指導し、ダライラマとパンチェンラマのオルドス及びその管轄する地方機関が具体的に実行した。主に差役の軽減、流浪農奴への宣撫、貧困の救済、生業の回復などを要求しある程度、民を楽にすることはできたが、農奴制自体には触れなかった。

2度目は、清朝末年にチベット駐在大臣の張荫棠らが推し進めた新政治である。関連する措置はチベット地方の封建農奴制の本質に触れてはいたものの、清朝が零落の途にあったため、この改革も終わりを余儀なくされた。

3度目は民国時代の、チベット地方の政治・宗教の首領である13世ダライラマが推し進めた「新政治」である。ダライラマはチベットの封建農奴制が直面している極めて大きな危機を意識し、改革することで農奴制の滅亡を回避しようと期待した。しかし、13世の改革が遭遇した抵抗は改革を推進する原動力をはるかに上回り、しかもダライラマ本人も農奴制自体を揺るがす勇気も気力もなく、この改革も同様に失敗の運命に帰した。

旧チベット地方に社会あげての改革が出現しなかったことは、三大領主階級が頑迷で保守的、反人民的であった本質を十分に暴露している。そうした改革がなされなかった源は、政教一致という制度による極端な管理にある。

20世紀の人類の「奴隷廃止」運動

50年代に中国がチベット地方の封建農奴制を廃止したのは、人類の「奴隷廃止」運動を引き継いだものであり、20世紀の人類の「奴隷廃止」運動における一つの高潮でもあった。

世界的範囲から眺めれば、奴隷制と封建農奴制の廃止は人びとを最も感動させた偉大な運動の一つである。1807年3月、最も早く産業命を実現した英国は大英帝国内での奴隷売買を違法とした。1833年8月には、英国植民地の奴隷制を違法だと宣言。フランスの第一共和国は1794年2月に「奴隷廃止」を正式に宣言し、第二共和国も1848年4月に再び奴隷制を廃止……。人間性と人道、人権を旗印に、「奴隷廃止」運動は社会の発展と進歩に向け力強い力を与えてくれた。

欧米では、最後の砦も1860年代に攻め落とされた。

ロシアの改革は、アレキサンダー皇帝2世が実行し、1861年2月19日に農奴制廃止に関する宣言に署名した。米国の「奴隷廃止」運動は、1862年9月22日にリンカーンが発表した「独立宣言」で大きなうねりを迎え、翌年1月1日から米国の400万人の黒人奴隷を解放すると宣言。1865年12月18日、南北戦争で北軍が勝利して終結すると、米国は徹底して奴隷制を廃止させた。

チベット農奴制は、1959年3月のチベット上層部反動集団が発動した武装反乱の鎮定後に終結し、中国政府は6月から民主改革を実行した。農奴や奴僕と領主との従属関係を廃止し、反乱に参与した極めて少数の貴族や僧侶、領主の財産をすべて没収、その総数の98%を占める反乱に参加しなかった領主、貴族、僧侶に対しては、彼らの生活水準が改革前を下回らないことを前提に、余分な土地などの生産財を買い戻し、没収した財産とともにすべてを過去の農奴に分与した。数百年に及ぶチベットの封建農奴制は廃止され、百万の農奴は歓喜し、かつて噶厦噶倫(グシャグルン・チベット地方政府の役人)を務めた有識者のアペイ・アワンジンメイも「民主改革は農奴を解放し、生産力を解放したのみならず、チベットそのものを救ってくれた」と感嘆した。

(中国藏学研究中心研究員 張雲)

「チャイナネット」2009年2月26日

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