実のところ朝鮮チームの勝ち負けは我々とは関係がないはずだが、ではなぜこのチームのパフォーマンスがかくも深く我々の心を動かすのだろうか。
まず、朝鮮チームに我々は改革開放前の中国チームの姿を見ているのだ。前世紀の60から70年代、中国は貧しくて閉ざされており、対外開放されておらず、体育運動は完全に『お国のために栄誉を勝ち取る』道具とされており、重たい政治と功利の要素を負い、かつ世界の体育運動の流れとのつながりがなく隔絶されていた。朝鮮チームのワールドカップの競技場での厳粛で規律のある個性の全くない姿は、我々に数十年前の自分、幸いにして我々が別れを告げたあの時代を彷彿とさせる。1950年から60年代に生まれた中国のサッカーファンは自分の車を運転して家に帰り、ビールを飲みながらソファーにすわってLEDのハイビジョンテレビを見る時、朝鮮人と自らを較べて心の中できっと次のように呟く事だろう:中国人の生活には天地をくつがえすような変化が起き、物質的生活、とりわけ大都市の生活水準は全く欧米のそれに劣らないと。だだし豊かな生活の背後で、我々の精神は金銭と物質的な楽しみの森の中でさまよっている。これが朝鮮とブラジル間の第一戦ののち、メディアと大衆の非常に強烈な反応が起きた事の原因である。
さらに朝鮮チームがポルトガルに大きく負けたのち、多くの専門家が戦術面での原因の分析を行なったが、私は更に深い原因は会場の外にあると考える。この事は我々がサッカーの国家チームの将来の発展すべき方向を考えるきっかけを与えている。
第一に、国家級サッカーチームを再度専門チームとして結成して訓練する方式はだめであろう、これは中国社会を再度前世紀の60年代に戻すのと同じである。サッカーのプロ化の流れは戻す事はできない。
第二に、国レベルのサッカー関係者は金の前に跪いてしまい、元気と闘志を欠いている事は衆目の一致するところである。社会的道徳観念と国民の素質が、物質的生活条件が充足するにつれて低下傾向にあるのは明らかで、サッカー界の腐敗と国レベルのサッカーの素質の低下は社会全体の姿の縮図である。もしこれを変えようと思うなら社会全体の道徳水準と同期して向上をはかるべきで、これには多くの努力と長い時間を要する。
第三として、サッカーをうまくやるにはいったい精神が重要かそれとも技術か。私が思うに両者共に重要である。どちらが欠けてもだめである。但し目下の男子サッカーの状況から言うと、精神が技術に比較してより重要で、これをうまくやれば容易に成果を見る事ができるだろう。
第四に、サッカーのレベルの高低と国の大小は関係がない。ただサッカー人口とサッカー競技場数とは関係がある。中国は13億人いるが青少年のサッカー登録人口は情けない事にわずか7000人である。日本は60万人である。中国の高層建築や自動車生産台数は世界一だが、芝張りのサッカー場の数は世界で100番目以下である。サッカー人口が明らかな増加を示す前の段階において、中国のサッカーのレベルをどう上げるか語るのは、実際のところ意味がない。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2010年6月23日