12日の朝が明け、公衆電話から伝言ダイヤルにつながり、ついに奥さんの携帯電話からのメッセージを聞き、これまで30年以上住み慣れた我が家が地震でがれきと化したことを初めて知った。奥さんとの再開後、二人は福島からまず逃れることにした。わずかばかりの現金を持ち車で、二人は避難の渋滞に巻き込まれながら7時間かけて栃木に着いた。記者が今後のことを尋ねると、墨永さんは呆然とした表情で、しばらくは東京の親戚に身を寄せるしかない、と話した。「その後のことは今は考える余裕はありません」。
巨大な災害は各自治体行政をも困難に陥れた。日本政府は地震発生後直ちに緊急災害対策本部を設け、自衛隊を福島に派遣した。しかし墨永さんは、地震発生後はじめて満足な食事ができたと語った。奥さんは「お気をつけて」と何度も繰り返し、荷物をまとめながらお互いの無事を祈り別れた。
午後4時、福島県内に入った。携帯電話、ネット信号が時折途絶えるようになる。走ってくる車はほとんどが福島県内から避難する人たちだ。数少ない道沿いの営業中のスタンドは1台につき1千円分のガソリンだけ販売、私たち報道チームの四輪駆動車は50キロほどしか走れなくなった。
「人民網日本語版」2011年3月14日