アレックス・トムソン氏はイギリスの有名な戦場記者で、これまで多くの痛ましい場面を見てきた。しかし、日本の地震と津波に襲われた地域のような悲惨な状況を見たのは初めてだという。
トムソン氏は13日、深刻な被害を受けた宮城県の南三陸町を取材し、見聞きしたことを報道した。
核の衝撃を受けたよう
戦場記者になって30年で20回余りの衝突と数回の大地震を報道してきたトムソン氏は、今回の地震で南三陸町に駆けつけた最初の西洋人記者だ。
活気に溢れていた港湾都市の南三陸町は廃墟と化し、ひっそりとしていた。イギリスの「チャンネル4」の記者であるトムソン氏は、「第2次世界大戦が終わる前の原爆を落とされた広島と長崎の写真を思い出す」と話す。
南三陸町の95%の建物が全壊した。木は折れ、セメントは砕け、金属は変形し、水や泥の中に埋まっている。自動車はぐちゃぐちゃに廃墟の上に積み重なっている。
廃墟の中に、笑った新婦が写った結婚写真、壊れたギター、人形、小学生のノートなどがあるのがかすかに見える。それらは、以前のここでの生活を反映している。
学校に集められた遺体
地震と津波の後、住民らは廃墟の中から生存者を探し、被害者の遺体を運び出し、また家の中の物を探している。
彼らは泣き叫んだり、怒りを露にしたり、感情的になったりはせず、黙って現実と向き合っている。
見つけた遺体を毛布に置き、山の上に運ぶ人もいる。町立中学校の体育館は遺体安置所になっている。
災害を目の当たりにした英語教師の森次さんは授業の最中だった。教室の激しい揺れを感じた後に津波の警報が鳴り、数分後に大きな叫び声が聞こえ、町が流された。
彼は屋根で身動きが取れなくなった1人の男性を目にしたが、なすすべがなかった。
何もなくなる
遺体安置所で手伝うレストランオーナーの千太卓真さん。
「私は幸い生きている。警報を聞いたあとに自動車で山に上がり、学校まで運転した」と、トムソン氏に話す。
自身が経営するレストランについて、千太さんは「なにも残っていない。終わった。すべて流れた」と述べた。
学校は高い所にあり、津波が襲ってきたとき、学生たちは授業中だった。
町の人口は1万7000人だ。当時、山の上に約7000人がおり、多くの学生の両親が行方不明になっている。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2011年3月15日