広々とした道路の真ん中に机がひとつ、上には花やろうそく、千羽鶴や飲み物が手向けられ、死者の魂を沈める。
日本東北地方の被災地に取材に訪れた数日間、地震や津波、そして放射能汚染でその名が広く知られるようになった福島県飯館村、南相馬、石巻、南三陸町、気仙沼、大船渡、陸前高田を車で通り過ぎ、至る所に残る被害の傷あとを目の当たりにした。東日本大震災では、死者・行方不明者が合わせて1万9000人あまりとなっている。そのうち、多くの人が津波によって命を奪われた。車は海沿いを走ったり、山の中へ入ったりしていた。不思議なことに、海から遠く離れた山の中でも、津波の悲惨な傷あとを時折見かける事があった。海水に押され、グニャグニャに曲がったガードレール、道路脇には、押し流された廃船が転がっていた。
南相馬市原町区の海岸沿い一帯に広がる家屋は全て、津波に押し流され崩壊した。瓦礫が除去された跡地には雑草が生え、平成10年(1998年)に建てられた老人ホームが荒野の中にひっそりと立っているだけだった。老人ホームの海に面している窓のガラスは粉々に砕け、残っているのは変形したステンレスの窓枠と丈夫なままの壁だけだ。激しい津波は老人ホームにいたお年寄り10名の命を奪った。水が引き、老人ホームは荒れ果てた姿で残った。
災害は去ったが、生活は続いていく。2月15日岩手県、白野さんと息子は牡蠣を輸送する船に乗っている。3月11日の津波のあと、住民1万7000人のうち、770人が帰らぬ人となった。多くの漁師が家を失い、船を失い、加工工場を失った。一年余りが過ぎ、漁師たちは組合を結成し、自分たちの生活を取り戻そうとしている。
南三陸町の防災対策本部は津波に遭い、骨組みだけが残されている。津波が発生した時、防災本部に留まり、町の人に避難を呼びかけていた女性職員が犠牲になった。一年たった今でも多くの人が、彼女に哀悼を捧げている。
冷たい風がカーテンを揺らし、部屋は何もなく殺風景で、台車が三つ並んでいるだけだ。