写真:2011年6月18日、日本宮城県で行なわれた東日本大震災の地震・津波による犠牲者の追悼式典。3月11日の東日本大震災から100日目。
香港『文匯報』3月5日付の記事によると、昨年3月11日に発生した東日本大震災から、間もなく1年を迎えようとしている日本で、家族を失った悲しみを抱えながら生きている人々はただ穏やかな生活を取り戻すことを望んでいるという。震災後、海に流されたところを救助された被災者は、当時の様子について「この耳で福島原発の爆発音を聞いた」と語っている。
今年61歳になる新川広光さんは、東日本大震災の津波で家ごと海に流された。屋根にしがみ付いて43時間漂流した後にようやく救助され、九死に一生を得た新川さんは、初めて救助された津波漂流者だった。1年近くが経ち、新川さんは福島県南相馬市にある自宅へ戻った。奥さんを亡くした辛さを抱えながら、今後はただ穏やかな生活を送りたいと願っている。
地震当日、新川さんと妻の由布子さんは自宅に戻り、急いで家財道具をまとめていた所、急激に襲ってきた津波に飲まれ、逃げる間もなく自宅2階に一時避難したという。しかし、その後目の前が急に真っ暗になり、水の中で何も見えず、水面へ向かってもがく事しかできなかった。
ようやく流れて来た屋根にしがみ付いた新川さんは、妻の姿がないことに気付いた。一晩中海を漂流し、翌朝、6機のヘリが現場で捜索活動を行なっていたが、発見されなかったという。
妻の事を思いながら漂流していた新川さんは、流れてきたマンガと蛍光ペンを取り、妻の誕生日などの情報や「妻・由布子、同様に津波で遭難、12日広光ここに記す」などと書き、空き瓶に入れて流し、妻が発見されることを願った。
そして、地震から2日目の13日朝、食物も水もない状況で空腹に苦しんでいた新川さんは、福島第1原発の爆発音を耳にし、濃い煙が立ち昇るのを見たという。そして、自衛隊のイージス艦が通り過ぎるのを見かけ、手製の赤い旗を振り、ようやく救助されたのだった。
大災害の状況下で、新川さんは、妻の由布子さんを亡くした悲しみを取りあえずは心の片隅に追いやり、復興活動に尽力するしかなかった。昨年8月、娘の住む川崎市に引っ越した新川さんは、日々、津波の経験と自分の想いを記録し始めた。東日本大震災から1年の祈祷イベントに参加するため、新川さんは南相馬市に戻った。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2012年3月6日