大震災のあと、家族は離れ離れに
鐘桂清さんは2002年に桂林市から宮城県南三陸町の10歳年上の男性に嫁いだ。夫は普通のサラリーマンで、裕福ではないものの、衣食には十分困らなかった。嫁いで来た時、丁度新しい家を建てていて、面積は400平方メートルほどで、車が15台止められるほどの広い庭があったという。家の近くに大きな畑があり、畑を貸し出すことで相当な収入が得られた。2人の娘にも恵まれ、鐘さんは出産してからは専業主婦として家庭を支えていた。
大震災が起きた時、鐘さんは娘2人と中国に里帰りしており、100年に1度と言われる大津波を免れた。しかし、不幸にも彼女の家は跡形もなくがれきと化し、買ったばかりの農耕作業用車も流されてしまった。
一夜にして、鐘さんは貧乏のどん底に落とされてしまった。地震発生3日後、彼女は毎日ネットの死亡者リストで夫の名前を探した。もし夫まで失ってしまったら、自分は5歳にもなっていない娘2人を連れてどうやって生きていこうかと想像も付かないほどだ。
この大災害を目の前に、中国人嫁たちは難しい選択を迫られていた。ここに残るか、日本に戻るか。中国の親戚は皆、彼女たちを引き止めた。「家がもうないのに、帰ってどうするの?」「家は避難区域にあるのに、今後どうやって生活するの?」日本にいる夫の家族たちも、彼女たちに「戻って一緒に苦しむ事はないよ。中国に残って普通の生活を送った方が良い」と説得していた。
しかし、中国人嫁たちは戻るほうを選んだのだった。
劉淑華さんは手術を終えたばかりの日本人の夫が心配だった。加えて、娘が日本国籍を手に入れることも諦め切れなかった。そして、鐘さんは幸いにも難を免れた夫と再会した。子供たちにはやはり幸せな家庭の中で育って欲しかった。
実際、被災地で暮らしていた多くの中国人嫁が一度は実家に避難したものの、最終的にはこの地に戻ることを選んでいた。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2012年3月15日