劉淑華さんと娘、家にて
遠く日本に嫁いだ中国の花嫁の多くは幸せな日々を送っている。しかし、あの大震災が彼女たちの幸せな毎日を壊してしまった。彼女たちには日本に残るか、中国に戻るかという選択が迫られていた。
中国人嫁は中国人の研修生と同様、日本に滞在している中国人の中で最も多い。近年、日本の国際結婚の1/3以上を占めるのが、中国人の花嫁だ。厚生労働省のデータによると、ここ数年、中国人が日本人の夫に嫁ぐケースが急激に増えており、2011年から毎年1万人以上の中国人嫁が日本に嫁いでいる。
多くの人々が中国人嫁に抱いている印象は、いつかのドキュメンタリーで紹介されていた姿から変わっていない。そのドキュメンタリーでは中国人嫁が生活のために、故郷を離れ、日本語が一言も話せない中、日本の山奥の農家に嫁いだ姿を追っている。自分の子供たちが日本の国籍を手に入れるため、彼女たちは想像し難い苦労に耐えていた。愛などと言うものは、彼女たちにとっては夢見るだけで実現することのないものだった。
中国人嫁にはそれぞれの苦労がある。しかし、今後の生活に困らないように、子供たちの将来のために、彼女たちは辛い毎日に耐え、日々戦っているのだ。
劉淑華さんと鐘桂清さん、2人の中国人嫁の運命もそうなるはずだった。しかし、運命のいたずらは彼女たちの幸せな生活への憧れを突然、消し去ってしまったのだ。
別れと再会
吉林省出身の劉淑華さんは2006年に福島県南相馬市に嫁いだ。ここは農業が主流の普通の町だった。南相馬市から福島県の中心街へは、車で2時間の山道を越えなければいけない。町には主要道路は1本しかなく、人口は7万人ほどだった。2011年3月11日のあの原発事故が発生しなければ、福島県は日本では知名度の低い地域に数えられるだろう。
劉さんの家は南相馬市の中太田神社の近くにあり、大きな樹齢千年以上の松林が直ぐそこに広がっていた。家は2階建ての一軒家で、夫の両親と一緒に住んでいた。家の前に8つの大きなビニールハウスを所有しており、野菜を栽培していれば、事足りた生活を送る事ができた。夫は自動車の修理工場で働き、その腕前で稼ぎを得ていた。劉さんと19歳になる娘さんも毎日、スーパーでアルバイトをし、満ち足りた日々だった。大震災の後、劉さんの暮らしは途方もない放射能の闇の中に落とされてしまった。彼女は、自分の家が福島第一原発から20.5キロの位置にあるとは思ってもいなかった。たった500メートルの差で、20キロ圏内の強制避難区域の被災者と同じように、彼女もまた20年以上も自宅に戻れない生活を送る羽目になった。
家が近いため、劉さんは原発の爆発音が聞いた。爆発後、濁った煙が広がり、呼吸が苦しくなったと言う。その時には原発でどんな事が起きていたのか分からなかったが、彼女は娘を避難させなければと思ったと言う。
その後間もなく、日本政府から緊急避難命令が出された。劉さんと娘は中国大使館の車でその場を離れたが、日本人の夫はそこに残るしかなかった。当時、脳がんの手術を受けたばかりの夫は、両目がほとんど見えない状態で、年配の両親と共に自治体の指示で隣の県に避難するしかなかった。