1600年、日本人は突拍子もなく英語を耳にした。それはイギリス人アダムスが発したものである。1808年、イギリス軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎港に入港し、食料などの供給を強要した。平和な日々に慣れていた長崎の警備班はその兵力を目の当たりにし、言われた通りに従うしか出来なかった。この事に大いに腹を立てた徳川幕府は長崎の通訳に英語を習うよう命じ、日本人が英語を習い始めるきっかけとなった。
敗戦から60年余り、日本人は不屈の精神で英語を学び、出版業界も繁盛し、英語学習関連の本はベストセラーが相次いだ。例えば1950年代の『和文英訳の修業』、『英文をいかに読むか』、1960年代の『英語口語教本』、『テストに出る英単語』(1967年発売以来既に1800万冊増刷されている)、1970年代の『なぜ英語を学ぶのか』、1980年代の『日本人の英語』、1990年代の『これを英語で言えますか?』など。今世紀に入ってからも更に何百種類もの本が発売されている。『「超」英語法』もそのうちの一冊だ。
英語は手段なのか、目的なのか。日本人は終始決めかねているようだ。明治維新以来、日本語廃止論が次々と出現している。1873年、空前の英語ブームの中、当時の文部大臣だった森有礼氏は「英語の国語化」を提唱した。2000年、首相のブレーンたちはグローバル化の時代には世界と対等に対話できる力が必要であると考え、「英語の第二公用語化」を提言した。2011年に地震・津波・原発事故が発生し、日本は世界の注目を集め、ある報道官が英語で情報を発表したことがきっかけとなり、英語の問題が再び国民に突きつけられた。まるで、被災した人々は皆、自分は記者の英語の質問に答えなくてはいけないと感じたようだ。これに対し、成毛眞氏は納得できず、2011年9月に『日本人の9割に英語はいらない―英語業界のカモになるな!―』という本を出版した。成毛氏はマイクロソフト株式会社の代表取締役社長を勤めていた経験があり、自身の経験に基づいた考え方を持っていた。1960年、日本から海外に行った人はたった数万人だったが、1980年代には1千万人を超えた。出版産業の規模はまだ2兆円にも達していないのに対し、英語産業は既に3兆円規模に上る。実際には1割の日本人しか英語を使わず、残りの9割は英語の学習で人生を無駄にしている。問題は、植民地のように英語を普及させるのではなく、1割の人の英語をもっと向上させることである。
日本人は英語を上手に習得できないと笑う中国人が良くいる。英語が出来ない人さえそうだ。確かに、学校で習う英語が実際には使いものにならないということは、日本が昔から抱える問題である。最初、日本人の英語の学習法は、読み慣れている漢文と同じ方法だったという。つまりは一字一単語ごとに解説を加えながら訳していく方法である。1920年代、日本はイギリスの言語学者であるパーマー氏は招き、英語教育の改革の実施を図った。しかし、日本人の漢文によって鍛えられた頭は、どうやっても英語を英語として学習する事ができず、日本語に置き換えてからでないと理解できないのである。40年間日本で英語教育に従事したパーマー氏は、挫折と失意のうちに去った。漢語に精通する高島俊男氏が「漢文の黒々とした影がまるで悪魔のように、日本の英語学習に爪を立てて覆いかぶさっているようだ」と言うほど、漢文の影響は強かったようだ。
もちろん、英語をそこまで重要視していない人もいる。2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏がそうである。益川氏は小さいことから大の英語嫌いで、大学院入試では、ドイツ語は完全白紙で提出し、英語も散々だった。日本を出た事がなく、ノーベル賞の授賞式が初めての国外渡航だったという。スウェーデンの授賞式では「I'm sorry、I can't speak English.」と英語で言い、異例の日本語での受賞記念講演を行なった。
しかし、テレビで日本の首相が欧米各国の指導者の中でなじめず、楽しめない様子を見ると、まさか日本語にまで自信をなくしたのではないだろうかと感じる。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2012年5月21日