1943年、東京市荏原区の藤倉航空工業荏原工場で落下傘を製造する女工達。
戦時中、大多数の日本女性は兵士として前線で戦うことはなかったが、日本の国内では積極的に“後方”支援に力を注ぎ、戦争を支持する活動に従事していた。幾千幾万の「軍国の母」「軍国の妻」「靖国の妻」「軍国少女」と呼ばれる女性達の存在が、日本の対外侵略戦争期間中に、日本女性が侵略戦争や軍国主義に深く関わっていたことを証明している。
1931年から1945年までの侵略戦争期間中、戦争の拡大や戦線の延長にともない、益々多くの日本男性が戦場に送られ、益々多くの日本女性が「総動員」の方針下で動員されて、“後方”の主戦力となり、侵略戦争で重要な役割を果たした。
政府は女性を戦時体制に参加させ、戦争を後押しさせるために、また、女性の力を存分に発揮させるために、妻や母親としての女性の任務を国家栄誉のレベルにまで引き上げた。ファシズム体制下において、戦争による人口の大量減少が生じた状況下では、特に女性の出産の任務が特に重視された。この時代、出産適齢期の女性の任務は“皇国”の子を生み育てることであると、厳しく定められていた。
戦時中、日本国内での女性に対する理想のイメージは赤子を抱く母親の姿であり、このイメージが女性雑誌の表紙やポスターに氾濫した。太平洋戦争の開戦後、毎年、政府は2人以上の戦死者がいる「皇国の家」を表彰し、天皇や国家のために子供を生み育て、無私の心で侵略戦争の前線に送って死なせるよう、母親達を教育した。