中国人民解放軍と中国の建設に参加した数多くの日本人の中で、人々が深く感服させられている人が一人いる。彼は新中国の革命と建設、中日両国人民の友好事業のため、粘り強く努力し、貴い貢献をした。彼は日中平和友好会の発起者の一人の金丸千尋さんである。
金丸千尋さんは1929年に山梨県の貧しい農家に生まれた。1943年4月、14歳になったばかりの金丸さんはほかの日本少年といっしょに、瀋陽の「満鉄奉天技術員養成所」に連れて来られ、車のメンテナンスの基本知識と技術を学んだ。1945年3月、金丸さんは「満鉄」斉斉哈爾(チチハル鉄道の保安検査員となった。日本の敗戦後、金丸さんは仕事を失い、衣食にも事欠き生活は苦しかった。
生存のため、金丸さんは中国人民解放軍に参加した。それ以後、金丸さんは積極的に中国の革命と建設に身を投じることになった。1946年9月、金丸さんは技術員として西満軍区軍需工事部に派遣された。ここで金丸さんは一生懸命働き、中国の同僚たちと深い友情を結んだ。勤務中に負傷したので、1949年3月、金丸さんはチチハル市人民政府民政局に転任し、「日本居留民協会」で働くことになった。
1958年、金丸さんは15年間離れていた日本へ帰り、日中文化交流協会事務局に採用された。1962-1967年、金丸さんは数多くの日中交流を促進する仕事に携わり、2回にも周恩来総理の会見を受けた。
1972年、中日国交正常化が実現した。長期の目標が達成されたので、金丸さんは感無量であった。同時に、2年間の努力を通じて、奥村一男、船木完氏らの協力の下で、1973年、金丸さんが企画、組織した日中友好団体の「竜の会」の第一回会議が東京で成功裏に開催され、日中の友好・交流を促した。1977年10月に、金丸さんはまた「中国帰国者友好会」(日中平和友好会の前身)の事務局長に選ばれ、中国のための円借款の導入、日本人専門家の派遣、中日姉妹都市の結成などの面で、著しい成果をあげている。
日本の降伏後、数多くの残留孤児が中国に残された。中国の養父母たちは多くの困難を克服し、これらの孤児を育てた。これは孤児たちに感謝されるばかりか、日本の国民たちにも感謝されることとなった。中国人の養父母たちに感謝の意を表すため、1999年8月、金丸さんは他の有識者とともに、瀋陽の「九・一八」博物館において、高さ2メートルの「中国の養父母に感謝する記念碑」を建てた。その費用の約半分は金丸さんが募金したものである。
「チャイナネット」2007年9月25日