酒井重作さん(1922年―)、東京の生まれ。東京中野高等無線電信技術学校を卒業後、1939年に中国に来て、「満州電業」会社阜新放送事業課で務めた。日本の降伏後、中国の革命戦争でのニーズに合わせて、酒井さんは技術員として、妻子とともに中国に残った。危険で苦難に満ちた戦争の時代に、酒井さんは中国東北地域の放送事業のため、際立った貢献をした。
酒井さんが解放戦争に参加した時は、国民党が再び国内戦争を起こした初期である。電信局の通信設備を保護し、放送局を設立するため、1945年末から1949年1月まで、酒井さんは、錦州から承徳、承徳からチチハル、チチハルから承徳、さらに天津へと、その道のりは合計2500キロにも達した3回の「大移転」を経験し、外国人の技術員の中国の革命へと身を捧げる勇気を自ら体現した。この期間中には、酒井さんは熱河新華放送局とチチハル放送局の設立、承徳放送局の再建などに力を入れ、中国の放送局の発展に奉仕した。
また、酒井さんは中国のために、多くの放送分野の技術に長じた人材を育成した。例えば、教材がなかったので、放送局の職員たちの技術レベルの全面的かつ系統的な向上は制約されていたが。酒井さんは董林さんとともに、休みの時間を利用して、中国語の『無線電読本』を書き上げ、中国の技術員の助けとなった。
帰国してからも、酒井さんはずっと中国の友人との連絡を保っている。
「チャイナネット」2007年9月25日