解放戦争の時、中国人民解放軍の軍隊には、布ぐつを履き、明治38式歩兵銃を背負い、手投げ弾2つをベルトに差し込んでいる若者の姿がよく見られた。背は高くなく、稚気満面ではあるが、毅然とした顔で、精力的できびきびとしている。彼は解放軍の中の日本人兵士、野田明さんであった。
野田明さん(1929-)、広島県の農村の生まれ。1943年、「国民学校」を卒業後、「満蒙開拓青少年義勇軍」に参加し、かいらい満州国浜江省珠河県の一面坡市で、大連における関東軍380部隊の一員として、獣医学を学んだ。日本の降伏後、1946年6月、東北民主連軍が一面坡市に進駐し、当時17歳の野田明さんは軍隊に入ることを申請し、解放軍の一兵となった。
解放軍に参加してから、野田明さんは歩兵や砲兵として、黒竜江省から雷州半島まで戦い続けた。東北の解放戦争で、3回負傷した。また、飼育員、警備員、教員、農村作業隊員、会計員などを務め、全てにおいてすばらしい成績を収めた。
1946年6月から1954年4月までの2800日間の生活を振返り、「これは私の人生の転換点である。黒竜江省から雷州半島まで、私は絶えず自分の思想を正し、新たな人生の道を切り開いた」、と野田明さんは語った。
1958年6月、野田明さんは「白山丸」に乗り、15年ぶりに日本に帰った。帰国後、野田明さんはずっと日中友好協会の活動に参加し、中日両国の友好事業のために力を捧げている。2001年、彼は2回にわたって中国を訪問し、かつていっしょに戦ったり、暮らしたりした戦友を見舞った。そのとき、彼はまた、「中国は私にとって、人生を転換させた重要な場所である」と語った。
「チャイナネット」2007年9月25日