中国開放の道100年 成功と失敗

中国開放の道100年 成功と失敗。 中国共産党は中国に歴史的かつ極めて大きな変化を引き起こした根本的要素であり、党はマルクス主義による武装と指導の下で輝きを放った。党はどのような状況の下でマルクス主義を受け入れたのか。党の早期の創始者が彷徨し、探しあてた最終的な選択を回顧する、その答えに、こうした問題は非常に必要である…

タグ: 党創始者,辛亥革命,マルクス主義

発信時間: 2011-09-16 14:21:15 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

中国共産党は中国に歴史的かつ極めて大きな変化を引き起こした根本的要素であり、党はマルクス主義による武装と指導の下で輝きを放った。党はどのような状況の下でマルクス主義を受け入れたのか。党の早期の創始者が彷徨し、探しあてた最終的な選択を回顧する、その答えに、こうした問題は非常に必要である。

1840年のアヘン戦争の後、中国は徐々に半植民地・半封建社会へと堕ちていった。こうした環境の中で成長した共産党早期の創始者は、国家の危難を見聞きし、強い愛国心に駆られるとともに、自ら革命を望むようになった。陳独秀や董必武、呉玉章ら年配者は、孫中山が指導する清朝封建統治に反対する革命に積極的に参加した。当時18歳の毛沢東は辛亥革命の年に筆を捨てて従軍した。国と民を憂い、国家のために力を尽くすそうという強い思いが、早期の党創始者が絶えず探求し前進する思想的な原動力だった。

辛亥革命は清朝の貴族統治を覆し、中華民国を建国した。だが、革命の勝利の果実を盗み取った袁世凱と後継の北洋軍閥。「共和国」は有名無実となり、中国は依然として半植民地・半封建社会であり、国家は危機に深く陥った。

中国共産党早期の創始者は北洋軍閥の時流に逆行する混乱統治に憤慨した。暗黒の政治、衰退する国家という現実が再び、彼らの強い愛国心を呼び起こし、国家の将来に対する思考をかき立てた。毛沢東は中国を「根本的に改造する」ことを提唱し、李大釗は「中国を再改造する」と主張、張聞天は「われわれはこうした不合理な社会に、気持ちのうえではとうに不安を感じており、不安であるからこそ早くに改造する決心をした」と語っている。各地にいる中国早期の先進者は期せずして中国を改造するとの共通認識で一致した。

一般に、早期の党創始者の「中国改造」という思想的探求の多くは、複雑かつ曲折した過程を経てきた。「文化救国」は彼らによって主要な手段とされた。陳独秀は1915年9月、「青年雑誌」を創刊し、これを機に全国的を激しく揺さぶる新文化運動が起きた。同時に、李大釗は「青春にあるわれ」をもって「青春の中華」の創建を声高に叫び、毛沢東は「常に旧を洗いすすぎ、染めてこれを新たにする」ことで、中華を再改造すると主張した。彼らは当時の中国の「国民性」の麻痺、愚鈍と脆弱と行った欠点を見て取り、思想啓蒙運動を通して、中国人民と中華民族を覚醒させようと試みた。

辛亥革命後、さまざまな「主義」が中国で広まったが、とくに改良主義や無政府主義が一時、風靡した。早期の党創始者のなかで一度、政府主義に傾いた人は少なくなかった。彼らはさらに改良の道を歩むことを幻想した。

何度かの選択を経て、彼らは最後にマルクス主義に転向した。1919年10月、李大釗は「わがマルクス主義観」を発表、マルクス主義は「世界改造のもととなる学説」だと考え、徹底したマルクス主義者となった。1920年秋、陳独秀は「中国の改造と存在は、サンディカリスムや無政府主義、ギルド社会社会主義、非民主社会主義を採用するのではなく、共産主義、即ち真のマルクス主義なのである」と認識した。

「中国網日本語版(チャイナネット)」2011年9月16日

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