◇孫文と結んだ刎頸の交わり
1897年7月、孫文が8月16日に横浜に到着し、陳少白の住まいに身を寄せることを知った宮崎滔天は、急いで香港から横浜へと向かった。
その後、滔天は孫文を熊本に招き、荒尾村で一週間共に過ごした。二人は中国革命の手段や計画、また大アジア主義について、徹夜で語り合った。孫文の学識と見識に敬服した滔天は、彼のために奔走することを心に誓った。
それからの十年、孫文は何度か日本に亡命するが、その度にお互い助け合った。滔天は当時の政界で影響力のあった犬養毅などを孫文に紹介し、また孫文の同盟会の設立を助けた。さらには、武器の準備から戦略の策定まで、孫文の革命に何度か参与した。自ら前線に立つことも、一度や二度ではなかった。
20世紀初頭、宮崎滔天の家は度々、早期同盟会の活動拠点となった。このとき滔天は黄興、胡漢民、汪精衛、戴季陶といった人々と親しく交流していた。
宮崎滔天一家は十年以上に渡って孫文と彼の革命を全面的に支援し続け、中国革命の成就を待ち続けた。しかしそのとき滔天には中国に渡る金が残っていなかった。滔天の妻である槌子は後に、家庭を顧みず革命にのめり込む滔天に、とても苦労したと回顧している。滔天は妻に、「革命のための金なら何でもできる。しかし妻を養うための金にまでは頭が回らん。自分で何とかしてくれ」と言ったのである。しかたなく妻は、荒尾村の農村で貝殻を焼いて石灰にして生活費を稼いだのだった。
孫文と宮崎滔天が会見している図を蝋人形で再現
「中国網日本語版(チャイナネット)」2011年9月21日