宮崎滔天
宮崎滔天は1871年、九州の武士の家系に生まれた。父は剣道の師範だった。1877年、西郷隆盛による挙兵のとき、自由民権運動に投じる長兄の宮崎八郎は戦地に赴き戦死。その後「宮崎三兄弟」は、体制外で自由に生きていくことを選んだ。兄の民蔵は、全ての人が土地を均等に与えられるべきであるという「平均地権」を唱え、後に孫文の「平均地権論」の形成に影響を与えた。同じく兄の宮崎弥蔵は、「中国に渡り、中国の英雄を結集させ、共に中国を復興させ、人権を回復し、新世界を作るべきである」と主張した。弥蔵は理想の実現のために、みずから中国風の髪型や服を着て東京の中国商人の集団に入り、孫文の盟友である陳少白と親交を結んだ。
弥蔵とその弟滔天は、中国の復興こそがアジアが白人の覇権に対抗できる唯一の方法だと考えていた。孫文と出会う前、宮崎滔天は二度中国に渡り、中国の革命闘士と親交を結んで大志を遂げようと考えた。
1897年5月、宮崎滔天は横浜に行き陳少白を訪問する。二人は意気投合し、旧知の友のような仲となる。帰りがけに陳少白は、「これがその人だ」と言って宮崎に小冊子を送った。
その英文書こそ、孫文が書いた“Kidnapped in London”(『倫敦被難記』)だった。その一年前、孫文はロンドンの中国大使館に誤って入り、拘留された経緯がある。イギリス人教師の奔走と、イギリス外相の強い関与によって、清朝政府はやむなく釈放したのだった。英語で書かれたこの本は、世界的な反響を呼び、一躍孫文を有名人にしていた。
宮崎滔天は一刻も早くこの革命家に会いたいと思った。
◇孫文と結んだ刎頸の交わり