吉林省公文書館開発利用部の高瑛副部長は、今回公表した公文書の中の第五次「開拓団」用地略図と朝陽屯「開拓団」部落配置図を紹介。「1932年から1936年にかけて、日本は中国東北部への武装移民の移住を計5回組織した。この公文書に記された第五回移民は、1936年に日本開拓省が正式策定した『集団移民計画』で、全国から農民1000世帯を選び、傀儡満州東部の牡丹江省密山県的朝陽屯などに侵入したことを指す。第五回『開拓団』用地略図からは、日本の選んだ移民用地がいずれも土壌の質の比較的良い耕地や交通の便利な鉄道沿線地帯であったことが分析できる。『開拓団』部落配置図からは日本人移民が先住者の家屋や土地を奪取したうえ、米やタバコを栽培したことが見てとれる」と指摘した。
「日本は移民によってわが国東北部の人口構成を変え、中国さらには他のアジア諸国への侵略をさらに進めるための後方基地にしようと企てた。日本のいわゆる『開拓団』は実際は『侵略団』『植民拡張団』だ!」と王氏は憤りの声を上げた。
「日本による中国侵略の歴史についてはわれわれは比較的多く研究しているが、日本が東南アジアをどのように侵略したのかについては、われわれ中国の学者による研究は十分でない。日本の右翼学者は、彼らは欧米人の手から東南アジアを解放したのであり、当時東南アジアの人々は彼らの進軍を歓迎したと自己宣伝している」。蒋氏は「今回の文書の中の東南アジアに関する部分は、われわれにとって歴史の真相を把握する助けとなる」と述べた。
1944年に日本軍ジャワ憲兵隊が作成した『憲兵月報(一月)』には、日本兵が楽しみを求めて勝手に軍の慰安所へ行き、通報され、口頭注意を受けたことが記されている。「この文書は、1944年に日本軍がインドネシアのジャワに軍の慰安所を設けていたことを明らかにするものだ」と吉林省公文書館の王放研究員は語った。
上海師範大学教授、中国「慰安婦」問題研究センターの蘇智良センター長は「文書はジャワ地区の慰安所状況を記しており、日本軍のいる所には中国であれ東南アジアであれ、いずれも慰安所が存在したことが分かる」と指摘した。