政府と民間が対立を続ける同日、金泳三の訃報は分裂した韓国社会の団結を強めた。外遊中の朴槿恵大統領は金泳三氏の逝去に哀悼の意を表し、政府は「全力で」葬儀を執り行うと述べた。韓国与党・セヌリ党の金武星代表は、自らを金泳三氏の「政治の息子」と称し、全力で最後を見送ると述べた。野党・新政治民主連合の文在寅代表は哀悼の意を表し、「金泳三氏は韓国の民主化の歴史を創造した巨星だ」と述べた。李明博元大統領も哀悼の意を表し、困難な時に金泳三氏がいつも勇気を与えてくれたと述べた。
金泳三氏は1927年12月20日、慶尚南道巨済島の裕福な漁師の家庭に、男1人女5人の長男として生まれた。父の金洪祚氏は10数隻の漁船と広い漁場を持っていた。唯一の男児として、金泳三氏は大切に育てられた。中学入学後は、日本人の同級生と頻繁に対立し、日本人の校長から無期限の停学処分を受けた。1945年に日本が降伏すると、金泳三氏は釜山慶南中学に転校し、大統領になるという大きな夢を抱き、机の横に「未来の大統領金泳三」という紙を貼り付けた。