米国プロバスケットボールリーグ(NBA)ヒューストン・ロケッツGMのダリル・モリー氏が香港地区のデモ参加者を支持する内容をツイッターに投稿し、それによって引き起こされた騒ぎはますます拡大している。中国側関連パートナーはロケッツ及びNBAとの提携関係を次々と解消。極めて大きなプレッシャーを受けながらも、NBAコミッショナーのアダム・シルバー氏は2日連続でモリー氏を擁護し、米国と中国には異なる価値観があり、チームメンバーの「表現の自由」を管理することはできないとする一方で、「大勢のファンを傷つけた」ことについては「遺憾」の意を表明していた。だが滑稽なことに、米国でもNBAは非常に強い疑念の声を浴びており、多くの議員や政治家がNBAは経済利益のために「恥ずかしくもしり込み」し、中国に「ぬかずいた」と非難している。
中米という二つの社会の「表現の自由」に関する認識の違いをどう捉えるか。この点について、ハーバード大学公共政策大学院「ケネディスクール」研究生・任意氏が発表した意見が多くの人から賛同を得ている。人民網ではその主な観点を以下のようにまとめた。
一、表現の自由と政治的正当性の問題
まず、表現の自由とその限度をどう考えるかという問題について述べる。この問題は、今日の西側諸国においてもいまだ議論が絶えない。
1、なぜ表現の自由があるのか
表現の自由は基本的人権だとみなされている。もし意見を表明できなければ、公の場で交流することも、政策や政府の活動について意見を述べることもできなくなり、民主制度を守ることができなくなる。その意味において、表現の自由は公民が政権に対して有する特別な権利である。公民の表現の自由を保護し、奨励することは、公権力に対する制限であり、言論の制限は民主主義に反するものとみなされている。
2、言論に対する制限
どのような点が「表現の自由」に抵触するのか
よく論議されるのは、「企業や機関は被雇用者の言論を制限できるか?そのような制限は表現の自由に対する抑制になるのか?」という問題だ。上記の分析に基づいて言うと、表現の自由は主に公民社会と公権力との関係を定義するものである。したがって、厳格に言えば、公権力が公民の言論を制限した場合にのみ、表現の自由の原則に反することになる。当然ながらこうした定義はやや法的・政治的な意味合いが強い。
一方で、企業や機関(たとえば政党)、組織は、その構成員に対し言論を制限することができる。それは個人が民間結社や団体に参加するのは自由意志行為であり、公権力とは関わりがないからだ。企業を例にとると、被雇用者が言論を発表したいのであれば、その企業を離れて他の機関へ行くことを選択することができる。その人がその機関に雇用されている限り、言論、振る舞いから服装・身だしなみに至るまで、その企業の各種内部規定や制度、準則を遵守する必要がある。
したがって、グーグル(企業)は人種差別や性差別の意見を発表したエンジニアを解雇できるが、トランプ大統領はある機関に対してある問題に関する発言をしないよう求めるツイッターを投稿することはできない。
3、なぜ表現の自由に対して一定の限度や制限を設ける必要があるのか
表現の自由は絶対的なものではなく、一般的には限度や制限が設けられている。ヘイトスピーチ的内容やポルノ、暴力、プライバシーの侵害、中傷などの言論は通常、完全に禁じられ、受け入れられない。
表現の自由を制限する理由・根拠は主に傷害の原則に基づいている。つまり、ある個人が自由を拡大し、行使する際には、他人の自由を損なうことを前提にしてはならない。「自由」な社会において、もし各人の自由に限度がなければ、それぞれの自由がぶつかり、社会の分裂を招く。表現の自由に限度と制限を設けることは、社会的弱者の保護とも関連している。なぜなら社会的弱者は言論や世論において往々にして弱い立場にあるため、社会的強者の言論を制限する必要があるからだ。これは社会の団結と運営を守るための基本メカニズムでもある。西側諸国の性別や人種、宗教などの分野における言論に対する制限は、往々にしてこうしたロジックと関連している。
4、政治的に正当か正当でないか
表現の自由と関連し、外延性のある概念は、「政治的正当性」(及び正当でないこと)である。
ある言論が政治的に正しくないとみなすことは、表現の自由の限度や制限、タブーとされている範疇に抵触したと考えることだ。政治的に正しいか正しくないかという基準で言論に安全な範囲と限度、触れてはならない部分を設定することで、人々は自ら限度を越えることを回避し、意識して自主的な検閲(censorship)をするようになる。たとえば、人種や性別、宗教信仰、社会的弱者に関連する敏感な話題について発言することを避け、他人や特定の人々を傷つけることを避けようとする。
もう一つ、これに関連し、広く中国語で用いられている概念が「政治的正当性(ポリティカル・コレクトネス)」だ。「政治的正当性」はすなわち政治的に正しくないことの反対の意味にあたり、主流となる価値観や認識、規範、基準、習慣に合致している言論である。
たとえば米国では、「民主」や「表現の自由」、「人権」を擁護し、神をたたえることは間違いなく政治的に正しい。中国では、国家主権の神聖さと領土の完全性を擁護することこそが絶対的な「政治的正当性」となる。
さらに具体的に言うと、いかなる社会においても、集団・層の違いによって、何が政治的に正しく、何が政治的に正しくないかの基準は変わってくる。たとえば米国では、誰もが憲法と体制を擁護すると言い、それには議論の余地はない。しかし、「国歌を歌う時に必ず起立し、敬虔な気持ちを持たなければならないか?」、「国旗と国歌に対して疑問を抱き、敬わなくてもいいのか?」という問題に関しては、右派はそれを正しくないと考えるが、左派は受け入れられる(正しくないわけではない)と考えるだろう。
国が違えば、その基準はさらに異なるものになる。米国では、政治家が神や信仰をたたえても政治的に正しい。しかし英国では、政治家が神をたたえた場合、政治的に正しくないわけではないが、人からおかしいと思われるだろう。
ある社会の人々から政治的に正しい、もしくは正しくないとみなされることに対し、別の社会の人々が下す判断はその反対になるかもしれない。それは、異なる社会においては、その文化や伝統、歴史、価値観、社会構成、直面する社会問題や矛盾点が違うからだ。そのため、一部の基準(すべての基準ではない)は社会によって構築され、文化によって決定され、特定の社会に的を絞ったものであり、広く適用されるものではない。
西側世界、特に米国では、民族主義は極めて深刻なタブーとなる。なぜなら西側社会にはおしなべて非常に複雑な民族関係の歴史があるからだ。
米国では、社会主義は表現の自由に含まれ、政治的に正しくないとは言えないが、「良くない」言葉であり、非常に慎重に用いなければならない(学術分野を除く)。西欧では、社会主義は非常によく見かける言葉で、政治的にも正しいと言ってよいだろう。そして日本では、共産党は確固として存在する重要政党である。
国によって歴史や伝統、文化、社会人口構成、価値観、イデオロギーが異なり、何が表現の自由の限度とタブーで、何が政治的に正しく、何が政治的に正しくないかについても、異なる理解がなされている。一国の基準を単純にほかの国にもあてはめることはできない。
5、郷に入っては郷に従う
違う国の伝統とタブーを理解し尊重することを覚える
異なる国どうしがつきあう道は「郷に入っては郷に従う」であり、相手の政治的正当性の基準とタブーを理解することだ。
たとえば、米国人や英国人はイスラエルとつき合う際に、ユダヤ人の歴史問題(ユダヤ人大虐殺)と現状(イスラエルの超タカ派政策)との関係や、パレスチナとアラブといった核心的な問題において、非常に敏感であり、イスラエル人の気持ちに配慮し、タブーに触れないようにすべきであることを非常によく分かっている。この点をどの英米の政治家や企業も非常によくわきまえている。
これは何を物語っているのか?この問題と、ある社会における表現の自由及びそれに対する制限との間にはなんら関係がないということである。どの社会にもそれぞれ異なる基準があり、最も敏感なペインポイントがあり、触れられたくないタブーがある。いわゆる多元的な文化や国を跨いだ交流は、さまざまな国や社会の文化を理解し、その国や社会の風俗を尊重し、特にタブーや敏感な点を尊重し、自分の道徳基準で単純かつ乱暴に相手を評価するのを避けることなのである。
中国人がもし米国市場に売り込めるような映画を撮り、そこに民族主義や性差別、宗教的偏見があり、米国の主流価値観を尊重しない内容だったら、米国では相手にしてもらえないだろう。したがって、中国は米国の政治的正当性と習慣を尊重しなければならない。
反対に、中国社会のタブーや敏感な点、政治的な正しさとは何だろうか?それは国家主権の不可侵性であり、領土の完全性である。中国はこの点に最も注目している。
このことは表現の自由となんら関係がない。あなたには言論を発表するあらゆる自由がある。相手の政治的正当性を尊重しない自由もある。しかし相手のほうにも、侵害されたと感じ、その代価を払わせようとする権利がある。
これがNBAが中国で直面している問題の本質なのだ。