転職した労働者 殷さん一家
1963年生まれの殷紹華さんは、1983年、北京市鉄路局に属する機関車車両部品工場に入り、旋盤工となった。彼の話によれば、当時の工場は、勉強しようとする雰囲気に満ちており、みな争って技術を学び、無償の残業は光栄なことだと見なされた。だが、残念なことに、計画経済体制に制約されて、労働者たちの懸命な働きが、企業の利益に転化しなかった。
1978年以来、中国はずっと、国有企業の改革を試みてきた。「放権譲利」(権限を下に渡し、利益を下に譲る)「承包制」(請負制)を次々と試行し、これにより、企業がさらに多くの利潤を留保して生産を発展させ、短期間のうちに企業の生産の積極性を増加させた。しかし、「政府と企業とが分離せず」「市場に対する敏感さに欠ける」といった問題をついに解決できず、改革の効果はあがらなかった。
夫婦ともに転職
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1980年代に殷紹華さんは機関車車両部品工場で旋盤工として働いていた(殷紹華さん提供) |
1989年、殷さんには娘が生まれた。そのため経済的な重圧をますます感じるようになった。工場の前途に明るさが見えないので、彼は工場を辞め、友だちの紹介で北京ウイルス学研究所の食堂の仕事に転職した。
食堂でも彼は労働者だった。最初の給料は前の工場より低かった。しかし、数年後には、給料は大いに上がり、昔の工場の同僚たちよりかなり高くなった。彼は幸せだと思った。
1992年から中国は国有企業改革の目標を近代的企業制度の設立に定め、「政府と企業の分離」「権力と責任の明確化」の方針を打ち出した。一部の国有企業は株式会社に改組され、人員整理が行なわれた。特別な技術を持っていない4、50歳の労働者は、レイオフを迫られた。殷さんの妻もその中の一人だった。
彼女はもともと、北京の有名な北氷洋サイダー工場に勤めていた。しかし、企業の利益がずっとあがらず、一部の年齢のいった従業員を、定年より早く退職させ、経営への圧力を減らすほかはなかった。
工場を辞めた時、彼女は17000元の補償金しかもらえなかった。彼女よりもっと年齢のいった従業員は、少し多い補償金をもらい、しかも2年もすれば国家から退職金をもらえるので、レイオフされても影響は大きくなかった。しかし殷さんの妻は、当時、40歳を過ぎたばかりで、定年までまだ10年もあった。
そこで彼女は、姉といっしょに売店を開いた。最近、北京では日用品の値段が全体に上がったが、殷さんの一家は、物価上昇を負担に感じることはなかった。彼らは今の生活に、とても満足している。
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