(2)誕生、評価確定
1978年に改革開放がスタートすると、国境地域の住民や香港・澳門(マカオ)のビジネスマンが自主的な取引を通じて利益を上げ、国境開放を求める声が上がり始めた。
国務院の谷牧副総理(当時)は作業チームを率い、広東・福建両省でたびたび調査を行い、特区政策の具体的な制定作業を進めた。1980年9~10月には国家進出口管理委員会の江沢民副主任(当時)も代表団を率いて、海外の輸出加工自由貿易区や工業パークを視察した。
1981年5月、国務院は広東・福建両省経済特区業務会議を開催し、経済特区設置の方針を明確に打ち出した。
「深セン速度」と言われた深セン市の急成長ペースが全国に波及する直前、南方視察を行った鄧氏は「自分の子供」に対するような愛情と関心をもって「深センの発展と経験が証明するように、われわれの経済特区設立政策は正しかった」と揮毫した。賛否が渦巻いていた特区は、これによりプラスの評価が確定した。
その後は一連のデータが示すように、深センを代表とする特区は過去に類をみない奇跡的な成果を達成した。1979年に35万1900人だった深セン市の人口は、2000年11月には700万8800人に増加した。2003年末現在の外資導入額(実行ベース)は260億7200万ドルで、西部地域の12省・直轄市・自治区の合計にほぼ相当する。かつて貧しい漁村だった深センは、今や新しい国際都市に生まれ変わった。
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