樽本浩司氏が就任から1年半ですぐに辞任した。 |
(2)スズキ中国、3年でトップ3人が交代
ネットワーク融合を主導した橋本氏は、最終的に融合と共倒れする形で2009年にひっそりと辞任した。かつて長安スズキにいたこともある橋本氏がうち出した3つのネットワークの融合計画は、開始早々からさまざまな困難に見舞われたが、橋本氏は計画の推進者として、また執行者として、多くの場で計画に絶対の自信を示していた。だが事態は計画通りには進まず、最終的には橋本氏の辞任となった。橋本氏の後継者は中国での業務経験がまったくない日本人の樽本浩司氏だった。
樽本氏の任期中の最も重要な出来事は、スズキが世界戦略における中級車と位置づけるキザシを導入したことだ。導入時、スズキ中国は自信に溢れ、中国での年間販売数目標を4万台とした。これは同レベル車のアコードやカムリと大きな開きがある数字でありながら、販売開始後には達成不可能な数字となった。その後公式に4万元の価格引き下げを行っても起死回生はならず、今ではキザシを街でみかけることはほとんどなくなった。このような惨憺たる成績で、樽本氏も就任から1年半ですぐに辞任した。次に日本から派遣されたのは山本克朗氏で、山本氏は双肩に重い負担がのしかかる船出となった。