実のところ、「ゆっくり就業」は、自発的な選択というより、大学生の就職情勢の現状からもたらされる客観的な趨勢だといえよう。日ごとに激しさが増す求職戦争に直面し、一部の学生は、「ゆっくり就職」の道を選ぶことによって、「実力固め」に自分の時間をより多く費やす、あるいは就職市場の実地調査にあちこち奔走する。この行為自体は、それほど非難すべきことではなく、選択肢の幅を広げる権利だと見なすことができる。このように、「能動的」な「ゆっくり就業」を選んだ卒業生は、就業に対する考え方において、世間の想像より成熟しているかもしれない。例えば、彼らは、自分の専攻が就業ポストにマッチしているかどうか、報酬は理に叶っているかどうかなどを重視している。もし、自分に合った仕事が見つけられない期間がしばらく続いても、焦らず様子を見ようとする。最終的に、「間違った就業選択をする」ことに対する代価はかなり大きいと予想されるからだ。このほか、大学院受験を目指す、公務員試験にチャレンジする、各種資格試験の受験準備をする、就業における自身の価値を上げるための努力をする、といった道を選ぶ卒業生もいる。これらの選択はいずれも極めて正当であると同時に、そのほとんどが支持されるべきものだ。そして、「選んだ籠の中身は全て野菜(どっちでもいいという意味)」の就業心理に比べ、より成熟した、理性的な選択といえよう。
もし、「ゆっくり就職」が現実的に就業の一形態になれば、教育主管当局から大学・保護者・企業に至るまで、あらゆる方面から卒業生により多くの選択肢を提供しなければならなくなる。大多数の人々のスムーズな就職を保障すると同時に、一部の卒業生がより高い柔軟性や自主性にもとづいて自分自身の就業方針やキャリアプランを立てることを認め、大学や学生を「しがらみから解放する」ことが今後求められる。(編集KM)
「人民網日本語版」2016年10月14日