40年 新たな出発点、新たな旅路

40年 新たな出発点、新たな旅路。

タグ:中国改革開放

発信時間:2018-07-11 11:15:54 | チャイナネット | 編集者にメールを送る


王暁輝 中国網編集長


 氷河が解けるように、種が芽を出すように。1978年、10年に渡る文化大革命が終わったばかりのころ、中国社会に蓄積されていた変革の力が、春の潮のように湧き起こった。時代の呼びかけに応じ、人々の期待を担い、改革開放の激流は山を押しのけ海を覆す勢いで、凝り固まった思想の束縛を脱し、旧体制の障害を突破し、中国の発展の道、開放の道、富の道を切り開いた。


 1人の商人と18世帯の農家


 大きな時代を迎え、小市民も歴史の流れに乗った。安徽省蕪湖市の商人の年広久さんは、ひまわりの種を販売し生計を立てていた。値段の割には量が多く質も良く薄利だったため、「傻子(馬鹿者)」と呼ばれた。勤労と誠意により、年さんの小さな商売はますます大きくなった。1979年には「傻子瓜子」という商標を登録し、小さな加工場も100人弱の工場に成長した。一世を風靡し、当時の社会における目障りな存在になった。当時は労働者の雇用は「搾取」であり、年さんは調査を受け監獄送りにされた。幸運にも小市民の運命は大時代の流れに乗り、偉人と劇的に交わることになった。鄧小平氏は3回の談話の中で「傻子瓜子」に言及し、個人経営者による労働者雇用の問題を解消し、年さんの運命を変えた。年さんは2008年に、「中国改革開放30年風雲人物」に選ばれた。


 ほぼ同じ時期に、安徽省鳳陽県小崗村の村人の田畑分配契約が、党と政府から注目された。40年前の小崗村は凶作続きで、多くの村人が物乞いによってその日暮らしをする生産隊だった。1978年11月24日、村の18世帯が田畑分配契約に署名した。田畑分配は当時は違法行為であったため、村人は秘密裏に「生死を左右する契約」に署名し、赤い手形を押した。彼らは田畑を分配し、各世帯が年間の農業現物税を納め、国からの支援を求めないことを約束した。村の幹部がこれによって入獄や死刑になれば、皆でその子供を18歳まで養育する。1年後、田畑分配を行った小崗村は衣食に事欠かなくなった。村人は飢えに苦しむことがなくなり、外に物乞いに出なくなった。鄧小平は改革開放初期の数回の談話で、小崗村の田畑分配の例に言及した。書き間違いばかりの、これ以上はないほど素朴な表現の「生死を左右する契約」は、中国の農村改革の貴重な文化財になった。


 年さんと小崗村の村人は当時、満腹になり幸せに暮らすという、最も基本的で現実的な目標を掲げていた。これは多くの国民のすばらしい生活への追求であり、また共産党の努力と奮闘の方向にも合致している。幸いなことに、小崗村の村人は偶然にも時代の流れに乗り、歴史も彼らのような人並みの労働者を記憶した。

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