米国には日本の半導体産業に圧力をかける動機があり、多方面で圧力をかけてきたが、単純な外部からの圧力では日本の半導体産業を打ち負かすことはできなかった。実際、86年の「半導体協定」調印後も長らく、日本の半導体製品は引き続き世界で一人勝ちの状態が続いた。
米国の集積回路を研究する企業のまとめた統計では、90年の時点で、世界の10大半導体企業のうち、日本企業が6社を占め、トップ3にはNEC、東芝、日立が並んだ。95年の時点でも、日本企業は4社を占め、NECが2位、東芝が3位だった。
しかし90年代になると、日本の半導体企業のDRAM技術路線では世界のパーソナルコンピューターとスマートフォンの発展の流れに対応出来なくなった。現状に閉じこもりがちな日本の半導体企業はこうして少しずつ米国のインテルや韓国のサムスンに追い越されていった。
一方で、日本の自動車産業も同じように米国の「貿易圧力」を受けた。種々の制限に直面しながら、日本の自動車メーカーは外からの圧力を発展の原動力に変え、モデル転換とバージョンアップを実現させた。米国の圧力を受けて衰退しなかっただけでなく、世界の産業競争の中で絶えずリードを拡大した。
米日間の自動車貿易摩擦は80年代初頭にさかのぼる。当時、米国産自動車の日本市場シェアはほぼゼロに近かったのに対して、日本車の米市場シェアは20%を超え、日本は米自動車市場の最大の輸入先国となっていた。米日の自動車消費文化の違いが貿易不均衡を招いた主な原因だが、米国は同じように制裁手段によって問題の解決をはかることを決定した。
81年、米国の圧力を受けて日本の通商産業省(当時)は米国への乗用車の輸出自粛に同意するよう迫られ、日本は輸出量を168万台に制限することにし、以降この数字を踏まえて動態調査を行うとした。これを土台に、米国はさらに日本に市場開放を迫り、米国車をもっと買うよう求めた。