河北省ギョウ(鄴)城遺跡の城門の一つ、広徳門の発掘調査で、先ごろ地下に埋まった焼けた土と炭の塊が見つかった。これにより「六朝の古都」ギョウ城が後に隋の初代皇帝となる楊堅によって、西暦580年(北周大象2年)に焼かれたという歴史書の記載が裏づけられた。同省臨ショウ(さんずい+章)県の文化財担当機関が明らかにした。
同遺跡は全国重点保護文物で、同県の県都の南西部、ギョウ鎮、三台村一帯に位置する。春秋時代に斉の桓公が築き始め、西暦580年に楊堅によって焼かれた。曹魏(西暦220~265年)、後趙(319~351年)、冉魏(350~352年)、前燕(337~370年)、東魏(534~550年)、北斉(550~577年)の六朝が都を置いた。約400年間、黄河流域の政治、経済、軍事、文化の中心地で、「六朝の古都、三国志ゆかりの地」と言われている。
遺跡は南北に連なる二つの城址からなり、そのうちギョウ北城はショウ河の北にある。後漢末に曹操が16年間いて、まったく新しい都を建設し、古代都市建設における「中軸を中心として左右対称で、地区ごとに分かれる碁盤の目のような構造」の先例となった。北魏の地理書「水経注」には、ギョウ北城は東西7里、南北5里、城門は七つで、南側に三つ、東西に各一つ、北側に二つあったと記されている。
実地調査で、ギョウ北城は東西2400メートル、南北1700メートル、城壁は幅15~18メートルで、北城の広徳門が南北の中軸線の終点であることがわかった。発掘調査の結果、ショウ河の古い川筋の砂に埋まった広徳門の土をつき固めた門の壁が約2・5メートル残り、焼けて黒くなった炭や赤くなった土が見つかり、歴史書にある次のような記載が裏づけられた。北周大象2年、大丞相の楊堅が北周の簒奪をはかると、当時の相州総管だった尉遅迥が挙兵し討伐しようとしたが失敗した。楊堅はギョウ城に火を放ち、千年の都は廃墟と化した。
ギョウ城遺跡保護のため、臨ショウ県は計画に基づき、予算総額10億元、敷地面積6平方キロの遺跡公園建設事業をスタートさせた。広徳門の復元が公園の七つのプロジェクトの一つで、観光客が北側から南の遺跡保護区に入る際の最初の城門となる。計画では復元展示方法を採用し、広徳門と両側の城壁を復元し、当時の主城門の姿を再現する。
「新華網日本語=中国通信社」 2011年8月6日