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(一)戦争との永遠の訣別
戦争の終結
日本人引揚者の「生命の駅」葫蘆島
聶栄臻元帥と日本人少女 美穂子ちゃん
中国残留日本人孤児を育てた中国の養父母
元日本軍負傷兵と中国農民一家の47年
紫金草の物語
南京に根付いた平和の木
日本人引揚者の「生命の駅」葫蘆島

1945年8月15日、中日両国の人民にこのうえない苦痛をもたらした戦争が終結した。当時、中国東北部に残された日本人居留民は130万人に達していた。1946年5月、遼寧省葫蘆島経由での残留日本人105万人の帰国事業が開始されると、葫蘆島の住民は、日本人引揚者にできる限りの救いの手を差し伸べた。当時の引揚者は、葫蘆島を心から「生命の駅」と、呼んでいる。

2002年11月12日、この忘却してはならない歴史を記録しようと、中国の葫蘆島報道取材班が日本を訪れ、葫蘆島経由で帰国した当時の日本人引揚者を訪ねた。

取材班は日本各地を回り、至る所で熱烈な歓迎を受けている。宮崎市の津村重光市長は、取材班のために設けた宴席で、「当時まだ子供だった私には、葫蘆島の印象はとても深いものでした。私の両親は葫蘆島から日本に帰国したのです。葫蘆島の人々の善意に助けられて………」と、しみじみと語った。自ら取材班に同行した元引揚者の大学教授も、寒い冬に、引揚者を自宅に迎え入れ、寝るところと食事を提供してくれた葫蘆島人々のことを今も忘れることはできないと語っている。

「ある日、目の前が暗くなるほど私は空腹でした。すると、ぼろぼろの服を着た中国人のお年寄りが近寄ってきて、甘くて大きな麻花(かりんとうのようなお菓子)をその子の懐に押し込んでくれたのです……」。日本行政改革調査委員会の雑賀一人委員長は、葫蘆島での体験を披露しながら、「中国の人々は最も広い度量と、最も真摯な心の持ち主たちです」と中国人民を称えた。

同じく葫蘆島からの元引揚者、玉田澄子さんは、当時のことを振り返るたび、涙が溢れそうになると言う。1942年、玉田さんの父親は開拓団に参加し、中国の東北部に渡った。1945年の初頭、父親は徴兵されたが、その後の消息は分からず、戦後、玉田さんの母親は中国人と再婚した。この中国人の義父の庇護を受け、彼女と母親は命を繋ぐことができたのだ。1946年8月、義父との悲しい別れを経て、彼女の一家は葫蘆島から日本に帰国した。現在、玉田さんは「そよかぜ会」という民間団体をつくり、毎年、中国東北地区の貧しい学生を援助して、中国人民に対する感謝の情を表している。

取材班の来訪は、古希を迎えた葫蘆島からの引揚者にかつての「生命の駅」を思い起こさせ、彼らの間に葫蘆島ブームを巻き起こした。元引揚者はみな、存命中にあの思い出の地を再訪することを願っており、「この世に思いを残したまま、死ぬわけにはいきません」と、口々に訴えた。

谷口睿子さん一家も葫蘆島からの元引揚者である。谷口さんとその妹は、訪れた取材班の銭福雲代表に、『要和平、不要子弾(平和がほしい、銃弾はいらない)』を繰り返し、繰り返し歌って聴かせた。

帰国を前に予防接種を受ける引揚者
埠頭に向かって歩く引揚者の列
葫蘆島を振り返る引揚者
埠頭を離れる帰国船
葫蘆島から離れて行った帰国船
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