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(一)戦争との永遠の訣別
戦争の終結
日本人引揚者の「生命の駅」葫蘆島
聶栄臻元帥と日本人少女 美穂子ちゃん
中国残留日本人孤児を育てた中国の養父母
元日本軍負傷兵と中国農民一家の47年
紫金草の物語
南京に根付いた平和の木
紫金草の物語

1939年春、かつて南京を訪れたことのある日本軍軍医、山口誠太郎氏が南京城を再訪した。活気に溢れていた町は戦火で廃墟と化し、どこに目をやっても見えるのは崩れ落ちた城門と焼け跡、散らばる白骨ばかりである。目の前の惨状に山口氏は驚き、不安を覚えたが、しばらくして、彼は日本に送り返される。帰国前、山口氏は南京の紫金山の麓に咲いていた花の種を採取していた。それは戦争の廃墟で逞しく咲く紫色の野生の花であった。

1940年春、山口家の庭に紫色の小さな花が咲いた。山口氏は南京で見たことを人に話せなかったが、「これは中国大陸から持ち帰った花です。私はこれを紫金草と名付けました。もし、気に入ったなら、この花の種をあなたの家の庭に蒔いてください」という短いメッセージを添え、花の種を親戚や友人に配った。

それ以来20数年間、紫金草を日本でもっと咲かせたいと、山口氏は毎年この花の種を採取し、麻袋に詰めて汽車の窓から投げ落とした。

1966年4月のある日、日本の新聞の文芸欄に一人の華僑青年の投稿文が掲載される。それは、中国には二月蘭と呼ばれる紫色の野生の花がある。以前はその花を日本で見たことはなかったが、今日、日本でもあの紫色の小さな花を見られるようになり、非常に懐かしく思っている、という内容のものであった。

この時、山口氏は77歳の高齢で、しかも病床にあったが、夫人がその文章を読みあげると、新聞社宛に手紙を書くよう夫人に頼み、夜を徹して紫金草の由来を口述した。そして、この花を咲かせたいと思ってくれるなら、無料で種を提供する旨を付け加えた。

1985年、山口氏の子息は筑波で開催された世界園芸博覧会で、訪れた世界各地の参観者に100万粒の紫金草の種を配布し、紫金草の物語は日本から世界に伝えられていく。

紫金草平和友好代表団のメンバー
南京での公演
南京で熱唱する日本の紫金草合唱団
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