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(一)戦争との永遠の訣別
戦争の終結
日本人引揚者の「生命の駅」葫蘆島
聶栄臻元帥と日本人少女 美穂子ちゃん
中国残留日本人孤児を育てた中国の養父母
元日本軍負傷兵と中国農民一家の47年
紫金草の物語
南京に根付いた平和の木
聶栄臻元帥と日本人少女 美穂子ちゃん

1980年7月14日、北京人民大会堂で美穂子さんは聶栄臻元帥の手をしっかりと握り締め、涙を流した。40年間生き別れになっていた「父親」に会えたのだ。聶栄臻元帥も彼女の手を掴んで離そうとはしなかった。

1940年8月21日、戦闘を指揮していた聶栄臻将軍は、指揮下にあった部隊が戦火の中から両親を失った日本人の女の子を救出したという報告を受け、司令部にその子たちを連れて来るように指示した。聶栄臻将軍が、二人のうち年かさの女の子に優しく名前を尋ねると、女の子は「興子」と答えた。この年かさの女の子が美穂子さんである(後に美穂子に改名)。彼女の脅えた様子を見て、聶栄臻将軍はナシを取り出し、「このナシはちゃんと洗ってあるから、食べなさい」と、親しみを込めて言った。「興子」ちゃんはやさしく接してくれる聶栄臻将軍に安心して近づき、ナシを受け取って食べた。聶栄臻将軍は、「敵は無数の同胞を残忍にも殺害したが、この二人の子供に罪はない。この子達も戦争の被害者だ。私たちはこの子達を保護しなくてはならない」と言い、二人を部隊で保護することを決める。聶栄臻将軍は、部隊を指揮しながら、自らの手で「興子」ちゃんに食事を与えていた。女の子も聶栄臻将軍を慕うようになり、将軍のズボンの端を握り締め、どこに行くにも影のように付いて行くようになった。敵味方を超えた愛情を注いだ聶栄臻将軍は、女の子の安全を考え、後に二人を日本の兵営に送り届けている。しかし、二人と別れた後も、聶栄臻将軍の脳裏からはあの小さな女の子のことが消え去ることはなかったという。

1980年、『人民日報』は『日本の女の子、君はどこにいる?』という記事を掲載し、日本の『読売新聞』がこれを転載した。「40年も経って、命の恩人が見つかるなんて、感激して泣いてしまいました」。美穂子さんは、当時の写真を持った『読売新聞』の記者が訪ねて来た日の驚きと感動をこのように語った。この時、美穂子さんは都城市に家を構え、夫と3人の娘たちと幸福に暮らしていた。

北京で再会した時、聶栄臻元帥は美穂子さんに松竹梅の『歳寒三友図』を贈り、「寒い冬、百花が落ちても、松、竹、梅だけは生気を保っていられる。中日友好も松竹梅のようであってほしいと思う」と言った。美穂子さんは帰国すると、絵の大きさに合わせて自宅の玄関を改築し、この貴重な絵を飾った。

1986年、美穂子さんは夫とともに中国を再訪し、聶栄臻元帥を訪ねた。「父は私たちに日中友好事業のために力を尽くすことを望み、私が今住んでいる都城市と、自分の故郷の江津市が友好都市になることを願っていました」。美穂子さんは、聶栄臻元帥の遺志を実現しようと心に決めた。その後、聶栄臻元帥の生誕100周年に当る1999年、中国の江津市と日本の都城市は友好都市の関係を結んだ。両市の友好都市提携を積極的に働きかけた美穂子さんは、「ようやく父の遺志を実現することができました」と、感慨深げに語った。

聶栄臻将軍と救出された日本の少女ー美穂子さんとの記念写真
聶栄臻中国中央軍事委員会副主席は美穂子さんを自宅に招く
美穂子さんとその家族と会見する聶栄臻全人代副委員長
美穂子さんとその家族を歓迎する河北省井陘県の人々
八路軍烈士の墓に花輪を捧げる美穂子さんと家族
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