元日本軍の負傷兵を救った中国の農民一家の物語が、中国人と日本人を深く感動させている。
1946年の秋、河南省南召県の太山廟鎮に住む孫邦俊さんは、街頭で聾唖の元日本兵を見かけた。体に傷を負った彼は身にボロをまとい、髪は乱れ、顔には垢がこびりついて、まさに乞食同然であった。孫さんは純粋な同情心からこの元日本兵を自分の家に連れて帰ることにした。孫さんの妻は猛反対したが、彼は、「家に置いてやればいいじゃないか。俺はこの人が飢え死になることに目をつぶることができないのだ」と言って、耳を貸さなかった。
太山廟鎮も幾度となく日本軍の略奪に遇っており、戦争の傷跡は、村にも、人々の心にもまだ生々しく残っていた。そのため、孫さんが元日本兵を引き取ることに、村人の多くが反発を示した。孫邦俊さんは何度も村民に懇願し、彼らを説得して回った。こうして、元日本軍の負傷兵は、孫さんの家に留まることになった。それも47年間、およそ半世紀にわたってである。
孫邦俊さん一家は家族の一員として彼に接し、彼が病気になれば、衣食を節約し、借金してでも医者に診てもらった。孫さん一家の善意を超えた献身のおかげで、負傷兵は大小の病気を乗り越え、生き長らえることができたのだ。やがて、村人も孫さん一家の熱意に打たれ、次第にこの負傷兵を受け入れるようになった。人々は、彼のことを「老日」と呼び、孫さんの家族とみなして、規定どおりに農地を分配し、災害時の救援物資も公平に分け与えた。
1962年に孫邦俊さんは亡くなるが、「俺が死んでも、日本人の叔父さんの面倒をしっかり見てあげてくれ。人には両親、兄弟、姉妹がある。あの人に代わって日本の家族を探し、ここに呼んで一家団欒をさせてあげるんだ」と、息子の保傑さんに言い残していた。
1972年、中日国交正常化が実現すると、孫保傑さんは「老日」の肉親を探すため、手当たり次第に手紙を出し、つてを求めて奔走した。しかし、聴覚と言語に障害を持つ「老日」からは、本人のことさえ満足に聞き出せず、肉親探しは難航を極めた。1990年、孫保傑さんが人に頼んで日本の新聞に尋ね人の広告を出すと、それを見た津田康道氏の証言から、この元日本兵は津田氏とともに入隊した石田東四郎という人物であることが判明した。
1993年6月、「老日」は日本に帰国することになり、孫保傑さんは障害を持つ「老日」に付き添うため、農繁期にも関わらず、彼を日本まで送って行くことにした。
「老日」こと石田東四郎さんの故郷である秋田県増田町の石山米男町長は、中国河南省の南召県に書簡を送り、同町出身者を救った孫家と、47年にわたり善意で彼を支えた孫一家をはじめとする南召県民を称えた。更に増田町は、町として中国人民への感謝を表すため、1994年、南召県に「中日友好太増(太山廟鎮・増田町)植物園」を造園している。
|