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周総理と中日関係
発信時間: 2008-04-29 | チャイナネット

日本人居留民の帰国支援

葫蘆島から日本に引き揚げる日本人たち
 

1931年の「九・一八事変」(日本のいわゆる「満州事変」)で、日本が東北三省を占領してから、たくさんの日本人が中国大陸にやって来た。抗日戦争が終わった時点で、約130万人の日本人が中国に居留していた。多くの日本人居留民は1948年以前に帰国したが、新中国が成立した後にも約3万人が留まっていた。

1950年の冬、衛生部部長兼中国紅十字会会長である李徳全女史がモナコで開かれた国際赤十字会の会議に出席する際、周総理は彼女に、日本赤十字社の島津忠承社長に進んで接触するよう指示した。

1952年末に中国政府は、中国に滞在している日本人居留民の状況を発表し、帰国を望む日本人居留民に中国政府は協力するとし、日本が団を派遣して中国紅十字会と協議してもよいと表明した。

1953年1月、日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会(以下「三団体」と略称)は、初めて日本政府の発行したパスポートを持って訪中し、日本人居留民の帰国問題を協議した。

その結果、双方は次のような合意に達した。日本政府は帰還船を派遣して居留民を引き取る。中国側は日本人が居住地から乗船するまでのすべての費用を負担するとともに、日本人が物品を携行し、外貨の両替をするうえでの便宜を供与する。

 

戦犯を人道的に扱う

日本の戦犯に対する処理では、いっそう新中国の広い度量を示した。中国紅十字会代表団は「三団体」の招きに応じて日本を訪問する際、周総理は、中国に拘置されているすべての日本の戦犯の名簿を日本側に渡すよう、とくに李徳全団長に指示した。

その後、双方は協議を経て、1612人の日本の戦犯のうち、1017人が1956年6月から9月にかけて、数回に分かれて日本政府が派遣した帰還船で帰国した。残りの罪行の重い45人は、それぞれ8年から20年の有期懲役を言い渡されたが、死刑に処せられた者は一人もいなかった。

これらの戦犯が帰国するときや、帰国後に再び中国を訪問したとき、毛主席と周総理は彼らと会見し、未来に目を向けて中日友好に力を尽してほしいと励ました。釈放されて帰国した日本の戦犯たちは、中国のヒューマニズムに感動しないものはなく、誰もが日中友好の活動に力を入れることを表明し、それによって贖罪の気持ちを表した。現在でも、彼らの子どもたちが、父親たちの遺志を受け継ぎ、日中友好のために努力している。

この二つのことが残した影響は、古い世代の日本人民の心に深く根を下ろし、ある意味でその後の活動の基礎を築いたのである。

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