1978年の夏の盛りのころ、鄧小平氏は華国鋒氏や陳雲氏、葉剣英氏らの同志たちと意見を交換した後、経済担当の国務院副総理であった谷牧氏と長時間、話し合った。二人は、中国は改革しなければ発展の道がないという意見で一致した。しかし問題は、どのように改革するのか、どこを改革の参考にするのか、どこが知的、財政的支援をしてくれるか、であった。
比較検討した結果、二人は、今後の中国の発展にとって参考に値するのは日本であると考えた。その理由は、中日両国ともに同じ東洋の文化圏に属しているので、米国や英国、フランスなど西洋の国々より、相手の文化を受け入れやすい。また、戦後の日本は、一面の焼け野原の中から、わずか20年足らずの間に刻苦奮闘して世界第二の経済大国になったという驚くべき奇跡を創りあげた。ある意味で言えば、両国の出発点は似通っている。これが、鄧小平氏が『中日平和友好条約』の批准書交換式に出席するという機会を借りて、自ら日本に行き、実地調査を行いたかった背景である。
鄧小平氏が日本に滞在したのは10月22日から29日までであった。スケジュールから見て、この訪問が二重の意義を持っていたことが分かる。東京に滞在した3日間で、『中日平和友好条約』の批准書交換などの重要な政治の日程を終えた。しかしこの間でも鄧小平氏は、日本経済の発展を理解するためのスケジュールをうまく挟み込んだ。
「中国の近代化を実現するには、正しい政策がなければならないし、学ぶのが上手でなくてはならない。世界の先進国の管理方法を、我々の発展の出発点にしようとするなら、虚心に日本に教えを請わなければならない」と鄧小平氏は言い、ユーモアたっぷりに「日本は昔から蓬莱と言われ、不老不死の薬があるそうだ。私の今回の訪問もそれを得るためだが、不老不死の薬はないかもしれない。しかしそれがなくとも、科学技術を発展させた日本の進んだ経験を持ち帰りたい」と言った。
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