残りの4日間、鄧小平氏は日本の経済や社会に対する視察に専念した。日本の財界や経済界の著名人や経済学者と会い、経済の発展と中日経済協力などに関する見方について意見を交わした。また、新日鉄君津製鉄所や日産の座間工場、松下電器の門真工場など、日本を代表する企業を参観した。
鄧小平氏は一刻も早く祖国に飛んで帰り、日本の経験を中国の経済建設に生かしたいと思った。帰国の飛行機の中で鄧小平氏はさらに「私は来るときも喜び勇んで来たが、帰るときもまたうれしい気持でいっぱいだ。日本を見て、近代化とは何かが分かったからだ」と興奮気味に述べた。
1978年11月、中国の「取経団」は住友金属鹿島製鉄所を訪問した。前列左から4人目が袁宝華団長(写真=張雲方)
■円借款と4倍増
鄧小平氏は生涯のうち大平正芳氏と4回、会った。2回目の二人だけの会談で大平氏は、戦後の日本経済の発展状況をかいつまんで紹介した。彼は、戦後日本経済の発展を、経済復興期、基礎固めの時期、高度成長期、多様化の時期の4つに分けた。大平氏は言った。「経済が遅れていた時期には、チャンスをつかんで、重点的に突破し、限りある資金と物資をもっとも重要な領域に使い、重点産業に重点的支援を行い、傾斜方式の発展モデルを実施すべきだ」
大平氏はまた、日本経済が飛躍的に発展した経験を「経済を中心とし、チャンスをつかんで、重点的に突破した」と総括し、鄧小平氏は大いに啓発された。中国が「改革・開放」後、経済建設を中心とする戦略的方針を提起したのは、大平氏の啓発によるものだろう、と私は考える。
|