会談の中で大平氏はまた、日本の所得倍増について紹介した。大平氏は、国民にはっきりとした目標を示してこそ、民衆を立ち上がらせ、力を合わせて経済を発展させることができる、と考えていた。鄧小平氏がその後打ち出して世界を驚かせた「国の経済を4倍増する」という構想は、大平氏の啓発によるものだと、鄧小平氏が後に中曽根首相に言っている。
1979年1月28日、旧暦の正月元旦、鄧氏は米国訪問の途についた。米国へ向かう機中で、鄧氏は突然、奇想天外なことを思いついて、大平氏に電報を打ち、数日後、東京で長時間会談したいと提案した。当時の大平氏はすでに日本という一国の宰相であり、政務は多忙を極めていたと思われる。しかし、大平氏は欣然とこの申し出を承諾した。こうして鄧小平氏と大平氏の三度目の会談が行なわれたのである。
この会談で大平氏は「日本は中国の『改革・開放』を断固支持し、知力や財力などの面において中国を援助したい」と明確に表明した。中国にとって、これは「雪中に炭を送る」だったと言えるし、これ以上ない支援であった。なぜなら当時、西側諸国は中国の「改革・開放」に対し、成り行きを傍観する態度をとっており、これを支援しようという国は一国もなかったからだ。
この会談の中で大平氏はまた、中国が「改革・開放」を進め、経済を発展させるのに、日本政府の低利のODAを利用してもよいと提起した。なぜなら大平氏は、中国の「改革・開放」の最大の問題は資金であることをはっきり認識していたからである。その後、谷牧副総理が日本を訪問し、円借款について、日本側と具体的な協議を行ったが、実際は、鄧小平氏と大平氏のこの会談の内容を実行したものだった。
鄧小平氏と大平氏の4回目の会談は1979年12月6日、すなわち大平氏が日本の首相として訪中したときのことであった。この訪中で、日本が中国に長期・低利の円借款を供与する計画が動き出し、その年の円借款500億円が供与された。と同時に、大平氏は、人材養成の面にも無償援助を行なうことを決め、「大平学校」と呼ばれる人材養成プロジェクトがここから始まったのである。
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