12月6日、鄧小平氏は人民大会堂で大平氏と会談した。大平氏は「中国の将来の壮大な青写真をどう描くのですか。どのような目標を達成したいのですか」と尋ねた。これに対し鄧小平氏は一分間ほど答えなかった。なぜなら、中国には当時、将来の目標について明確な見解がなかったからである。鄧小平氏はしばらくして「20世紀末までに経済の4倍増を実現します」と言い、そのときには「小康社会(いくらかゆとりのある社会)」になる、と解説した。「中国経済の4倍増」という話は世界にセンセーションを巻き起こし、その日の国際ニュースのトップになったが、そのスローガンはこうした背景の下で提起されたのである。
1986年秋、谷牧副総理(左端)の案内で、新疆・トルファンを訪れ、ロバに乗る向坂正男氏(中央)(写真=張雲方)
■幻となった特区通貨
鄧小平氏と谷牧氏は、中国経済の発展に知恵を貸し、アドバイスをしてくれる外国の経済学者を中国政府の経済顧問として世界から招くことを決定した。そして経済顧問として、大来佐武郎氏と向坂正男氏が選ばれた。
1979年1月末、2人は北京に来て、谷牧氏らと会議に参加した。席上、大来氏はタイに設立された経済特区の経験を紹介。日本は江戸時代、鎖国していたが長崎の出島だけはオランダとの交易が認められていたことを紹介した。この「出島」の理論が、その後、中国の経済特区や経済開発区の設立に影響を与えたという人もいる。
中国が経済特区を設立した後、特区内で通貨を発行するかどうかという問題が起こったときも、大来氏は意見を求められた。大来氏はきっぱりと、「私は特区通貨の発行には反対です」と述べた。その理由は、当時、中国の人民元だけでも少なくとも二重の交換レートがあり、さらに「外貨兌換券」があって、これも二重の交換レートがある。もし特区通貨を発行すれば、さらに二重の交換レートとなる。中国は最終的に通貨を統一しなければならないのだから、特区通貨の発行は不必要だ、というものであった。大来氏の話は道理が通っていたため、特区通貨の発行は中止となり、すでに印刷を終えていた紙幣は廃棄処分にされた。
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