侵略戦争における殺人と、社会の犯罪である殺人は違うのでしょうか?私はそうは思いません。少なくとも道義上は。例え神の命令であろうと、上官の命令であろうと、殺人は殺人であり、その罪は償うべきこと、少なくとも悔い、反省すべきことです。私は、「人を殺す」という大罪を犯した人々の置かれた個々の状況には、理解や同情をすることもありますし、そうした弱く哀れな彼らをそのような状況に追い込んだ元凶(それが社会であれ、体制であれ、個人であれ)を心底憎みますが、彼らの罪の弁護まではできません。そんな資格も権利も無いと思っているからです。それは歴史に任せることではありませんか?どうやら私たち日本人の意識の中には、同胞の犯した罪(特に国外で犯した罪)について、できるだけ免罪符を上げたい衝動があるようです。それが民族主義であり、愛国主義であるとでも?分かりません。私はそもそも、自分とは直接関係のない、他人の罪を、ただ彼が日本人だからという理由で許すようなことは、できないと思っているだけです。
それから、私の考えでは、日本の「歴史問題からの逃亡」と「アメリカへの隷従」は一つのセット、例えるなら、悪魔のコインの裏と表です。日本人がこのコインを手放す勇気がなければ、元々悪魔の物ですから、「神のものは神へ返せ」で、悪魔が最後に日本人へ返済を迫るでしょう。(中略)
正直、私は日本人として決して上出来ではありません。「非国民」と言われればそうなのでしょう。同胞意識や愛国心なる感情や信念が、私の中にあるのか、ないのか、分かりません。(中略)
最後に、私は、「ジョン・ラーベ」を中国で見ることができますから、幸せですね。
2009年4月2日 宮本
|