軍事の先進性を師に
1921年秋、張学良は張作霖の命を受けて日本を訪問した。初めての外国である。日本で1カ月余り参観した。「いろいろ接触したことで、日本が画策する険悪さの深さを感じ取り、身の毛がよだった。同時に、私は日本の国力を認識し、中国がもし奴隷になりたくなければ、奮い立ち強くならなければならず、これは日本の侵略に抵抗できる空言ではない」。日本に抵抗するために、近代の多くの中国人と同様、彼にも「敵を師とする」考えが芽生え、日本の陸軍大学で学びたいと思ったのは、参観するなかで「日本の軍事教育を十分に崇拝した」からである。帰国後、戦争は緊迫化し、日本に渡って学ぶことはできなかった。だが、彼は張作霖に敵を師とし、軍を整えて精鋭にするよう提言した。張作霖は受け入れ、「後に、奉天の空軍は日本が訓練し、日本の飛行機も購入した」。また、若い武官を日本に留学のため派遣した。執政後、彼に抜擢された著名な武官のうち50人余りが日本に留学している。
非常に鮮明だが、気持ちの上で、張学良は日本を憎み嫌い、また羨むという二重構造のなかにあった。「私は徹底的に日本人を恨んだ」。「恨みは恨みだが、彼らはまったく並ではない」。気持ちの上で、彼は日本への嫌悪と憎悪から脱け出せなかった。ただ、張学良の日本観の理性は、中日両国の力に対する認識が、父を殺した敵だからといってねじ曲げられていなかった、陵辱されたからといって選り分けることなく日本を一概に排斥しなかったことにある。「敵を師とする」は、もとよりいかんともし難い痛苦だが、理性の極みでもある。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年3月1日