西側メディアが描いた漫画「日本脅威論」
20世紀初頭、日本は古くからの植民主義国に乗じて戦争に忙しく、綿紡績品や靴下、衣料品といった廉価な商品を利用して急速にアフリカ市場を占有、欧州の対アフリカ貿易に深刻な打撃を与えた。古き植民主義者をより心配させたのは、欧州が日本のアフリカへの進出ぶりから、膨脹し続けるその野心を見て取ったことだった。先ごろ、学術界でかなりの影響力をもつ英誌「アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス」が、この歴史の一段を明らかにした。
◇日本商品がアフリカ市場に浸透
日本と南アフリカとの貿易は17世紀のオランダ東インド会社の設立から始まった。同社は獣皮を極東に輸出するため1652年に南アフリカに設置されたものの、その後の3世紀近く、貿易額は「極めて少ない」としか形容できない状態が続いた。
だが、第1次世界大戦が情勢の転換点に。戦火を交える中、英仏など従来から南アフリカに日用品を供給していた国々は自らのことで手一杯となり、一方の日本は時機を狙い定め、南アフリカに紡績品を大量に輸入することで、ビジネス世界での足場を築いた。1920年に輸出額は400万円近くに達し、第1次大戦前のおよそ10倍、伸び幅は驚くべきものだった。
1921年から南アフリカ向け輸出は再び増大、黄金期を迎えた。その後の数年にわたる木綿糸価格の下落により、廉価な商品をつくる新たなチャンスがもたらされたことで、南アフリカ市場の地盤はさらに固まった。
◇「日本商品は投げ売り」が流行語に
日本の“貿易浸入”については、南アフリカ現地のメディアも非常に重視し、繰り返し報道した。1932年発行のケープタウンの新聞を開くと、日本商品をキーワードにした報道がかなり目につく。ある記事には「日本の靴下は烤餅(原料の小麦粉を焼いた食べ物)のように道端に置かれている」とあった。1足50セント、1ドル35セントする現地の靴下の販売はかなりの影響を受けたという。次から次へと飛び込んでくる情報に接し、南アフリカ人も新語「日本商品は投げ売り」を徐々に知るようになっていった。
◇白人エリートが対外一致を呼びかけ