文=奥井禮喜
調子のいいときは誰でもご機嫌だ。しかし森羅万象移ろうて停止せず。思うように行かないのもまた至極当然。恰好つけさせてもらうならば、苦境で面白くないときこそ人格が問われるのでありまして。
昔からわが民族は言葉遊び、駄洒落には調子よく力量発揮したが、輸入品的ユーモアとなるとあまり得意ではない模様だ。なりゆきで報道なども一本調子の危機感が煽られる。
なにしろ似たような報道をするのだから、衆目を集めようとすれば驚かすのが手っ取り早い。それに深刻なポーズのほうが熟慮していると思われやすいかもしれない。
ただいま深刻な話題には事欠かない。いわく財政危機、いわく社会保障を再生させよ、いわく貿易赤字をどうするんだなどなど枚挙にいとまがない。もちろんあれもこれも容易ならざる問題には違いない。
たとえば財政危機、敗戦後のどさくさから立ち上がった1960年代まではわが国は立派な健全財政であった。1965年に赤字国債2000億円発行したが、民間金融機関が引き受けた。
赤字国債は発行しないという決まりであった。その抜け穴が建設国債で、建設だから赤字国債ではないとしたが、本質は赤字国債だという正論も唱えられていた。公共投資大盤振る舞いの時代であった。
所得税と法人税中心の税制だから所得弾力性が大きい。じゃんじゃん投資して景気を煽れば税収は上がる。加えて財政投融資という別財布もあった。まさに野放図に財政膨張をさせたのである。
赤字財政は1975年度から深刻になった。本質は深刻なのだが、なにしろ勢いがついていて前述のような事情であり、幸か不幸か経済は右肩上がりである。誰も本気で財政危機を解決しようとしなかった。
1988年度には、わが国債残高がGNPに占める比率は52%、英国47%、米国41%、西独21%、仏10%と、すでに世界トップに上っていた。1981年度予算以来財政再建を目標として、1984年度に赤字国債をゼロにする計画だったが達成できなかった。