1980年代、日本のエンジニアは自国の大企業のライバルを片っぱしからなぎ倒した。しかし今、年を取った彼らのようなエンジニアたちは、盛んな発展を続ける中国で第2の人生を見つけたようだ。ロイター社ネットサイト4月16日付の記事。
「私が勤めていた業界は、日本ではもはや半分棺に足を突っ込んでいるようなものだ」と59歳の相田正之さんは言う。相田さんは金型の製造を行なう東京の会社で30年間働いていた。しかし50歳を過ぎると、相田さんはほとんどの時間を中国広東省の東莞市で過ごすようになった。日本では年金の受給開始年齢が引き上げられ、法定の定年年齢が近づいている相田さんのようなエンジニアは、選択を迫られていた。即ち、何もせずに数年後に収入が無くなるのを待つか、中国の企業に再就職するかだ。20年続く不景気に苦しむ日本にとっては、ライバルの中国が「日本メーカー」の技術と技能を手に入れたことを意味する。日本政府のデータによると、東莞市だけでも2800名の日本人が居住している。
およそ20年前、日本で初めて技術者の国外流失が発生した。当時、韓国企業は日本の大型電機企業から大量の半導体と家電製品の技術者を引き抜いた。アナリストによると、中国で新たな就職口を見つけ、第2の人生を送っている日本人エンジニアは、日本企業に2回目の壊滅的な打撃を与えるほどの最先端の技術を持っているわけではない。しかしながら、長期的に見て、その影響は深刻なものだろう。彼らのおかげで、中国の製造業は優良な製品を高効率で製造する技術を手に入れる事ができたからだ。
多くの日本の技術者が雇われて、中国に赴いた。経済的な面だけでなく、日本で定年を迎えた後に引き続き仕事をしたいと考えているからである。「日本にいる時に比べ、仕事の時間は長くなったが、仕事は少なくなった」と相田さんは話す。
中国で第2の人生を歩むのは決して簡単なこととは言えない。相田さんが現在住んでいる東莞市郊外は、生活の利便性は日本には及ばない。公共バスが唯一の交通手段であり、タクシーの多くが違法な営業しているため、外国人は騙されることもしばしばだ。物が盗まれる事はもはや日常茶飯事である。
当時、韓国に行った日本のエンジニアは「反逆者」だと責められた。彼らはライバルに技術を教えたからだ。今、中国に来るエンジニアはそこまで深刻な中傷を浴びているわけではないものの、彼らの動機に疑問を抱く人は少なくない。携帯の金型を製造するエンジニアの岡富雄さんは「みんな、大抵は家族を養うためである。恥だとは思ってない。仕事をくれる人がいる。なら、もらった仕事をしようと考えるのは間違ったことではない」と言う。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2012年4月22日