日本軍の「潜水空母」 開発から処分までの経緯を追う

日本軍の「潜水空母」 開発から処分までの経緯を追う。 第二次世界大戦中、日本は巨大な「鋼鉄海獣」を建造した。同兵器は深海を進み攻撃を行うことが可能で、また爆撃機を発艦させ空中からの爆撃を行うことが可能だ。ドイツ週刊誌『デア・シュピーゲル』はこのほど、「伊四〇〇型」と呼ばれる潜水空母を公開した…

タグ: 日本軍 伊四〇〇 呉軍港 山本五十六  潜水空母

発信時間: 2013-01-14 09:49:32 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

第二次世界大戦中、日本は巨大な「鋼鉄海獣」を建造した。同兵器は深海を進み攻撃を行うことが可能で、また爆撃機を発艦させ空中からの爆撃を行うことが可能だ。ドイツ週刊誌『デア・シュピーゲル』はこのほど、「伊四〇〇型」と呼ばれる潜水空母を公開した。

テリー・カービー氏率いる調査チームは2005年3月17日、ハワイ付近の海域で潜水艇の試験を行なっていた。突然、彼らの前に巨大な海獣が現れた。当初は奇妙な形をした岩かと思われたが、あまりにも大きすぎた。カービー氏が目にしたのは、日本が開発した秘密武器、潜水空母だった。

同兵器の発案者は、日本海軍の山本五十六指揮官だ。日本軍は1942年、中国および東南アジア諸国に侵入した。山本五十六の任務はアジアの制圧、それから米国に対する壊滅的な打撃であった。日本海軍はこれに向け、造船計画の中に18隻の伊四〇〇型の建造を盛り込んだ。これらの潜水空母は一度の補給で、地球を一周以上航行できたという。

潜水空母の建造計画は、日本軍から重視された。山本五十六は1942年1月13日、同計画を推進することを決定した。同年4月18日、同兵器は日本海軍の優先計画になった。しかしまさに同日、米国空軍が広大な太平洋を横断し、東京に空襲を仕掛けた。日本軍は翌年1月、潜水空母の建造を開始した。日本が定めた一つ目の作戦計画は、潜水空母と爆撃により、米国西海岸の都市に対して生物兵器で攻撃する案であった。しかし生物兵器を使用した場合の深刻な影響を考慮し、日本はその後この計画を、サンフランシスコ、ワシントン、ニューヨーク等の都市への爆撃に変更した。米国の優勢が明らかになると日本は再び計画を変更し、パナマ運河を攻撃することで、同運河を通過し兵力を輸送しようとする米海軍を数ヶ月間封じ込めようとした。日本軍はまた、当時パナマ運河の建設に参与した日本の技術者に教えを請い、攻撃の演習に用いるため、呉軍港でガトゥン閘門の模型を作った。

しかし呉軍港は米国から頻繁に爆撃され、日本軍の計画が妨害された。米軍はまたパナマ運河に向かう海路にも兵力を配備した。米国はさらに機先を制し、3000隻以上の船舶を集め、日本本土への攻撃に備えた。ディーゼルオイルが極度に不足していたため、日本軍はその後、パナマ運河爆撃作戦の中止を命じ、米軍の西太平洋における前線基地のウルシー環礁の攻撃に変更した。1945年にようやく就役した4隻の潜水空母はすでに情勢を覆すことができず、米国が前進を続け、広島と長崎に原爆を投下するのを絶望の中で見守るしかなかった。

1   2    


iphoneでもチャイナネット!

日本人フルタイムスタッフ募集    中国人編集者募集
「中国網日本語版(チャイナネット)」の記事の無断転用を禁じます。問い合わせはzy@china.org.cnまで

コメント

コメント数:0最新コメント

コメントはまだありません。